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『物質的恍惚』(ル・クレジオ 1967〜)

 「いつまでこんなことやってんだろ」を勝手にシリーズ化することにした。シリーズのタイトルは〈何を今さら…〉
  というのも、新刊に面白いものがなければ、既存の本に興味が向く。
 筒井の回でもやったことを想い出し、この際シリーズ化しようと思い立った。で見つけたのがル・クレジオの『物質的恍惚』(豊崎光一・訳 岩波文庫)
 この際だから言っておくが、この老大家存命である。
 しかも、新作『戦争』も用意されている。(筒井も少し若い大家であるが新作を発表した)
 その私の現状判断の背中を押してくれるのが、“世田・美”(世田谷美術館)で20日まで開催されている「松本瑠樹コレクション-ユートピアを求めて」展。
 この展覧会を企画、応援した亀山都夫による解説が新聞に載せられている。(11月5日 付)
 その記事によると、まず、このタイトルに含まれる「ユートピア」である。
 このギリシャ語の語意は「どこにもない場所」。
 古来ヒトの書く物には、不可思議な空白が必ずあるもので、それは何だろう…と。それを想像するのも読む者の楽しみでもあるのだ。
 しかし、それをことばで自覚しないうちに、書物は終りを迎えてしまう。もどかしい。読むそばから失われてゆくものである。
 本書にある記述-「ぼくが望んだのは、生以前の虚無と以後の虚無を内包している(!)ような書物を創り上げること→(主旨)」は、私が読んでいる本に、出来上がる以前と以後が、内包されている。
 としたらその不可思議が私自身に移ってきてしまう。
 そういった書物自体が不可思議を湛えているのである…
 私たちの店は「どこにもない~」を文字れば「どこにでもある場所」として、ひたすら普通のコーヒーが飲めて、ひと休みできるテーブルをご用意しています。
 次回は、そのひたすら普通の小規模飲食店を扱った『カフェと日本人』(高井尚之 講談社現代新書 10年新刊)をご紹介します。

# by ihatobo | 2014-11-09 20:28 | 本の紹介

『カフェと日本人』(高井尚芝 講談社現代新書2287 10月新刊)

 ――「いつまで、こんなことやっているのだろう」という訳で、今回は私の生業、喫茶店にて書かれた本を読んだ。
 というのも、日々の場面でお客様からの問い合わせ対応に窮することがあり、その折に役立ちそうなのだ。
 本書は、日本のコーヒーを主に提供する小規模店が、「喫茶店」なのか「カフェ」なのかを問いながら日本独特のこれからの店舗を概観している。読者に分りやすくするために、2大チェーン店“スターバックス”と“ドトール”を比較しながら、その概観に境界線を引いてゆく方法で、それらの店舗の内容を紹介している。
 著者も「結局、カフェでも喫茶店でも大差はない」と記しているが、もっと以前に、日本にコーヒーと呼ばれる異国の飲み物が上陸した際のアレコレを現在から振り返ったおおまかな「歴史」を見渡している。
 ちょうど今日の出勤途上で、ダイドーの自販機前で「ダイドーの新商品をお配りしていまーす」という男女2人組が、販促/宣伝をしていた。一旦は通りすぎだが、50m程を引き返して一缶もらい飲んでみた。
 と、本書に書かれている主要な記述がそのまま一缶に詰まっている味で、現在の「カフェと日本人」そのままであった。ちなみに、その内容から私は迷うことなく女性の方から一缶をいただいた。
 是非、興味のある方は一缶を飲んでみて下さい。

# by ihatobo | 2014-11-07 10:53

『田附 勝 ー おわり。展~「沖で待つ」(絲山秋子)』

 先日、3日の夜、写真家田附勝と会話をした。そのことは、田附が来店すれば、店内が特に混雑していなければ、いつものなりゆきである。
 しかし、今回は日時を予め互いの予定に伴せ、しかも、その会話を公開する、という趣向である。
 カフェでよくやっている“トークショー”である。
 しかし、私たちの場合は、単なるトーキングス。ショーまで鍛えて臨んだわけではない。
 故に、話題は多岐に及び、面と向かってはいちいち言ったことのない、自分の名や、その音読みから年齢、生まれ育った環境、家族・親族の職業や歴史、…と短く、ごく短い2文字熟語で、互いに通じるように配慮した、配慮はしたが、私たちにとっては、普通にいつも通りの時間が過ぎて行った。
 その内に写真家としての田附の仕事仲間、ファン、友人らが続々とやって来た。
 田附には人望がある。「このヒトには望みがある」読んで字の如し。人望。
 その意味で田附の人柄に魅かれ、彼の写真集にも文を寄せるのが、社会(歴史)学の赤坂憲男さん。
 写真がどうの、という文では毛頭なく、田附の写真に魅せられて集まってくる人々の、語り合うコトバを、継ぎ合わせたかのような、切実なつぶやきのような、言い争いのような、寄り沿うコトバが、彼の写真集に綴られている。

 人望の備わった人はいるもので、その人を主人公に据えたのが『沖で待つ』(絲山秋子 04,5→06年の文庫化 09文春文庫)
 「オレいつまで、こんなこ、とやってんだろう」
 と、主人公の死んだ片割れがいいます!
 「医院で、いつまでたって、も名前呼ばれないような感じ」と彼はいいます。「診察券は出したのに(…)」
 それ「でも仕方ないから待合室にいつま、でもいる」と。
 相方はいう「また太ったんじゃない」と。
 とにかく、文がうまい!こんなんだったら死んでみるのもいいかな、と思わせてくれた。〈 死 〉は意外に近くにある。


 

# by ihatobo | 2014-11-06 23:39