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『ポーの一族 ユニコーン』(荻尾望都 小学館)その2

 ほぼ前世紀1900年代になってから、同様のコトバを使う共同体が、「国家」となり、同時に「○×民族」となったわけだが、その時期を生きた詩人が「自国/自国語」ではない「世界」のコトバを造り出した。

 と、同時に「世界語」「世界文学」が、実際にあるわけではない。ことも彼は、自覚していた。だからこそ、彼は自国語で詩を書き、その言語だけで翻訳を許さなかったわけではない。日本語にも訳された、それらの著作は今も輝きを失ってはいない。

 長いものだが、読み継がれている。

 荻尾さんの作品も、自分を問い詰めてコツコツと手描きしていったものだから、線一本についても自らの個別性(クセ)や同時代の息吹が描き込まれているはずである。あるいは、それらを他のマンガ家が読み、翻訳されているはずである。

 いま、私たちがイギリスとかフランスとか呼んでいる国名も、そういう生い立ちを持っているから、この先どうなるか分らない。

 荻尾の作品のキャラクターも、あるいは教訓や善行、知識、美、友情などが疑似化されて登場しているのかも知れず、ゆっくり、ひとコマ、ひとコマの意味を考えながら、読むこともできそうである。そうして、いつか、「ポーの一族」が世界文学になるかも知れない。私はそう願いもし、考えてもいるのだ。

 *エドワード・サイードの『オリエンタリズム|上』を参考にしました。


by ihatobo | 2019-07-26 09:04

『ポーの一族 ユニコーン』(萩尾望都 小学館 フラワー・コミックス 2019年)

 今回は、エドワード・サイードの『オリエンタリズム上』を読んでいたのだが、萩尾さんの新作が発表されたことを新聞で知り、まだ買っていないが、「復活」第二作の本書を紹介することにした。萩尾望都といえば『ポーの一族』だが、本作にも頭にポーの一族がクレジットされている。

私たちの世代は男子にも「少女マンガ」は読まれていて、ポーの一族を凝縮した如き『トーマの心臓』や『12月のギムナジウム』で、それまでのマンガに対する執念を壊された、というショックがあった。同時期には、つげ青春や林静一、村上一夫もいたのだが、何が描かれているのかが、分からない程のものだった。

 つまり、一幅の絵画を前にしたかのような感じだった。自由を前にして、何をしたらいいのか、分らない気持ちになるのと似ていたかも知れない。綿々と続けていた現実が、その時、消え去ってしまったのだろう。

 そうした芸術体験が、この頃はマンガ、映画、音楽、芝居を問わず、都会には溢れていた。都会ばかりではなく、広くそうした「芸術」が偏在していたのかも知れないが、他にも路地で、列車の中で、それぞれの家庭のリビングにも、「自由」があった。ブラウン管やラジオのスピーカーの中に…。

 さて、新聞の記事を書いた坂井修一によると、そのような「自由」のなかで、暗喩やくり返し、象徴(記号)の使用、ストーリーの時系列からの喚脱が縦横に行われる、という。

 ぜひ買って読まねば。


by ihatobo | 2019-07-19 10:08

『紫式部日記』(池田亀鑑 秋山虔校注 岩波文庫)

 昨夜、石田衣良が芸人、学者を交えて紫式部について話をしていたが、彼女は、自らの生い立ちに複雑な思いを持っていて、自らを卑下し、いわばいじけた少女時代を送った、という。というのも、家は代々知的な役柄をこなす家系で、父がふと彼女が男に生まれてくれば、と漏らしたことがあったらしい。

 その為に、彼女は家から見捨てられている。という想いが募り、もとより聡明な彼女は家にあった豊富な文献を読み漁り、女性にしては豊かな教養を身に付けた、という。

 そうしたなかで、父を象徴とする権威、家父長制に対する反抗、愚痴、つげ口、あるいは将来に対する夢、不安、恐怖を日記にしていた。しかも、発覚を嫌い、文は匿名、擬人化された感情、架空の男、女、人、果ては動植物までを語り手にした。(まるでは賢治ではないか!)

 その結果、書かれたものは客観化され、書かれてゆくプロセスによって、自我が「消えたたんじゃないでしょーか」と石田はいう。石田は、このことが近代になってからの「小説」と同等であり、現在も人々に読まれる理由ではないかという。

 『源氏物語』にも、挑戦したくなった本であった。TVも、面白い。



by ihatobo | 2019-07-12 10:17

『夜想曲集』(カズオ・イシグロ ハヤカワepi文庫2009→11年 その2)

 本作の原題はNocturnesで、副題に「音楽と夕暮れを巡る五つの物語」がついている。この副題だけでも、視界が広がる。それで、本作発表の少し前、05年に出たインド出身のセンチ・トイの「あなたは、私の顔からいくつの物語を読み取りますか?」を店で流してみた。勘は当たり、静けさが店内に広がった。

 もちろん思い込みだが、共通感覚が働いたのかも知れない。しかし、彼女も人生の中で空間を移動して、その作品にまで辿り着いた。だが、良い作品に接すると、どの手法で表現されたものでも心が安らぎ、ウキウキとしながらも静かに背筋が伸びるのは、珍しいことではない。

 日本語訳だが、場面は開放的で華やいでいるのに「そっと言った」とか「やがて笑い声が止んだ」のあとに「我ながら、ちょっとロマンチックなことを企んでいては…」という、急に「シーン」という音が聞こえてくるように、感じさせるのが彼は巧み。

 「一流が廃れるなんてことは、ありません」という断定とかも「シーン」とするのだ。

 それから、古いポピュラー・ソングの曲名を使う。それがとてもいい。本文中で説明しているが、それを「ブロードウェイ・ソング」というらしい。「ヒァズ・ザット・レイニー・デイズ」とか、それが「ほろ苦いバラード」で彼は「好き」と書いている。などなど。

 最初、詳しく紹介できなかったことの今回は、紹介まで。英語できずとも、原著を読みたくさせる本である。トイ姫のように曲をつけて、彼も歌ってくれれば幸せな時が、過ごせるのだが…


by ihatobo | 2019-07-05 09:29