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『セーラー服とエッフェル塔』/鹿島茂

 知人と村上春樹をくさしていたら鹿島茂の名があがり、『セーラー服とエッフェル塔』(00→04年 文春文庫)のくださらなさに会話が流れた。
 しかし、くだらないと言ってみても本作に取り上げられる話題は、時に大変な切実さで私たちを襲ってくるもので、ひき込まれるように読んだ。ページ進行のフォーマットは書評、紹介であって本ブログと同じであり、このカタチは便利であり、私自身に力を与えてくれる本であった。



 江戸時代の性風俗について書かれた本を紹介しながら、現在の“恋愛”の結末を“情報”であると彼は結ぶ。つまり古来(といっても12世紀頃)恋は男性同士のもので、それが江戸期に男女の性愛を含む恋情になり、更に近年はその決着は現金であったが、現在では誹謗中傷を含む暴露となっている、トホホという文脈である。つまり、恋の初期は死をもって遂行される「危険な」恋情であったという。
 
 そう言われれば同性に対する恋情というのは、自分では気づかぬうちに嬉しがっており、しかし気づかぬうちに「検閲」されているように思う。現在では日常語となった「無意識」と共にこの「検閲」は、フロイトの用語なのだが、私たちのコトバではそれは“心”のあるメカニズムのことである。実は“心”は便利だが、実際複雑なコトバなのだ。
 幼い時分に「O君B子ちゃんのこと好きなんでしょう」と図星を刺されると「ちがうもん」と“心”にもないことをいうアレである。私たちにはそういう「検閲」が仕組まれている。
 そうした事情を「学説」を持ち出して語る知識人がいたり、「ワカモノ、抑圧を跳ね退けて自分らしく生きろ」という居酒屋の説教オヤジもいる。ウットーシー。何の参考にもならない。
 
 ほぼ50年、特に最近はその「自分らしさ」を求める言説が氾濫していて「OXの心の闇」「キャラ」「運命」といった単語の連なりでそれは語られる。
 始末が悪いのはそうしたメディアを通じて漏れ聞こえるそれらの単語に自分のコトバのストックがヒットしてしまうと、その“心の闇”が移ってきてしまうことがある(→『スーパー・カンヌ』/J.D.バラード、2002年)*。注意が必要である。
 他に十人並みの顔、ネオテニー(未成熟)で出産する人類、古書にまつわるコレクションや偽造についてなどこの本は実に楽しい。

* 彼は本年4月に逝去した。

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by ihatobo | 2009-07-18 12:17 | 本の紹介