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手に負えない本――J.G.バラード『スーパー・カンヌ』

時節柄、その内容を聞き、友人に本作を借りて読んだ。一読して「何だか嫌な感じの午後」になりそうだったので、端折りながら恐る恐るページを繰った。

「衝動的な行動だけが人生に意味を与える」と考えている主人公の妻と「今の世の中、心理学がすべてだと思っている」副主人公の間を右往左往する主人公という設定の物語で、作家は30年生まれの英国人J.G.バラード。本作発表時には70才である。



SF小説と略称される作品こそが「20世紀のもっとも正統な文学」といい、自然/人文科学知に基づく作品、つまり心理学や工学成果を日常の生活実感、具体性に差し込んで解釈してゆこうとするその行為が、登場人物と物語を構成してゆくといった手法を彼は確立している。

副主人公の精神科医、ワイルダー・ペンローズは医者であるよりも哲学、社会学者といったキャラクターの持ち主で、総じて彼の関連で述べられている事柄は精神疾患の事実ではなく、現代の風潮を支える心情、つまり記号としてのそれであり、それが私たちにもたらす怯えや不安である。

作者は人々のイメージしているその風潮を捉え、記号化することで物語を作った。副主人公はそうした疾患である“狂気”を世界?のリーダーたちに“処方”すると主張する。“毒をもって毒を制す”式のありがちな設定をしかし“狂気”をもって“狂気”を制すと読めば、当然現代を生きる人々の大きなしかし鈍重なテーマである倫理がこの物語の根幹を成すことになる。

しかし主人公や他の登場人物が生きる現代、それがいつの時代であったとしてもその大半は偶然性が占めている。つまり、現実の“現在”は実に無責任な何でもない平面であって、何かの決断が必要である場合でも、それは熟考された基礎的なデータとその将来の予測は殆どの場合、当てにならずハズレることの方が多いのだ。

私はその場面で「偶然しか信じない」と主張しているわけではないが、彼方から偶然がやって来ているその時が、とりもなおさず“現在”であることをいいたいのだ。その時に素早く「跳ぶ」ということ。それは決断ではなく単に踏み込めばいい。“やりっぱ”である。そのトホホ感がこの物語にはない。

しかし物語の各々は大変興味深く示唆に富んでおり面白い。精神疾患に限らずあらゆる疾病、疾患はその発端に立ち会う者を怯えさせ不安にする。当の患者はそれらの情動に晒される。しかし人はいわれる程ヤワではない。

その一撃を何とかかわすことができれば慣れてしまうものなのだ。人は自らの真実と耐えがたい事実の間で現実を生きる。その場しのぎの決断とその結末を引き受けて次のステージへ向かう。患者の日々もそう悪くないことは大方の人々も承知している筈だ。

その他、飛行機、光、地下、空、タブロー、劇的情景、薬学的知識、卵の殻を割る、アリス、フィッツジェラルドやコール・ポーター、ロッテ・レーニャ、ラ・マルセイユズ、「倫理を監視カメラと私設警察として実現した」などがずっと続く。浜辺のニーチェという章もあって少し驚いた。そしてその件の副主人公の苗字は数学者を連想させるが、その数学者も最後には古代東洋哲学を持ち出す訳だし…。やはり、人生偶然が来た時に「跳ぶ」のが私には適している、と改めて思った。

J.G.バラード『スーパー・カンヌ』(小山太一訳、2000→2002年、新潮社)

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by ihatobo | 2009-02-09 23:29 | 本の紹介