人気ブログランキング | 話題のタグを見る

『情事の終り』(グレム・グリーン 新潮文庫 1951-59年)

 この主人公のような人格は、普通の日常では認知症、あるいは境界例と略称される患者の症例では普通である。
 グレアム・グリーンの『情事の終り(旧タイトル 愛の終り)』(1951-59年 新潮文庫)に、この物語と同じような症例がある。(情着語法)をめぐるJLボルヘスの考察を参照した。

 ――「・・・でも彼が愛したのは私でしょうか、それともあなたでしょうか?だって彼は私のうちの、あなたのお憎みになったものを憎みましたから。彼は自分ではそれと知らずに、いつもあなたのお味方でした。あなたは私たちの別離をお望みになりましたが、彼もそれを望みました。彼は彼の怒りと彼の嫉妬とによって、そのために働きましたし、また彼の愛によってそのために働きました。・・・」

 彼は自分の作品にのめり込む余り、現実の自分が行く先々で感じたことを書き、その物語が成立完成する一部始終が、作品のテーマである「愛」を終始せざるを得なくなる。
 作品へ向かうために最初の一語が浮かび、同時に最後の一語が浮かぶ。その間の物語は無意識が支え、心の標尺がそれを思い出す。
 より重大な「戦争」のような事件が起きれば、現実の作家も抗争し戦斗せねばならない。作品を書くための時間は即時的に消えて無くなり作品は生まれない。
 タイムマシンの体験は、自分にとってはリアルだが、それを誰彼を問わず訴えたところで、何の証明も成立しない。
 私はある程度の重力を感じただろうか?
 かいた汗の飛滴は、今現在の自分の胸を伝っているのか、一年半前の世界にしたたり落ちたのか。
 つまり、ある種の透明人間の体験であり、それをピストルのような道具で自殺を試してみても、今現在、私はここにいる訳だから、自殺未遂に終わったに違いない・・・
 と考えると、私の目の前に見知らぬ男が立ちはだかった。
 「この度は、ご愁傷様でした」
 私は彼を知らない。誰か身内の人間が亡くなったに違いない。そうは考えたが、亡くなった人間が私の身内なのか、この男の親族なのか判然としない。
 「神」は人間ならぬ超越的ペルソナであるから”人格”(と訳す―あとがき 田中西二郎)によるサラァの苦しみは、persomal な神を、理屈としてではなく、識ろうとして識りえなかった苦しみであった。
 そして「彼女は憎むことによって、神の person を知った」。
 つまり、憎しみは人格に向けられるものであって、人格ならぬ神を憎むことには意味がない。信者の体質的なパラにクスが、そこに埋もれている。キリスト教は、その土台の上に成り立っている。
 人は社会を作る動物である。それは、人間の本来に属することがらであって、ペルソナによってそれが隠されている、という事だ。
 キリスト教に未来は訪れるのだろうか・・・

by ihatobo | 2014-12-25 19:16