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『池波正太郎 「自前」の思想 / 佐高信 田中優子』(集英社新書 12年)

たまたま『池波正太郎 「自前」の思想』を読んでいたら、ボブ・ディランこそ「自前」の人だ、と思った。
本書では、「自前」を「自立」をひき合いに出して説明している。
つまり、「自前」はまず一人で生活が成り立つように、社会に出、学び、「食えている」状態を獲得する。そうすれば「世間は認める」
しかし、「自立」は、いわば順序が逆で、既に衆知されている社会に追従し、そこから、その代償として、金銭や地位、名誉を得る。
それが、「どこに出しても恥かしくない」と。

もちろん、ディランは「どこに出しても恥かしくない」。
しかし、時と場合によっては、「どこに出しても」にはならないだろう。人はそういうものである。
本書でも、一貫して、その事情をネガティブに扱っていない。しかも、無責任に社会に出ろ、とそそのかしているのでも、決してない。
佐高が「(行くべき道は)書かれていない」という映画(『アラビアのロレンス』)の台詞を引用するように、始めから計画された分岐を撰択するのではなく、分岐を眼前に、撰ぶ原則を「自前」は備えている。
ヒトに尋ねられて正答できるものではない。
そこでは、しっかりすること。自分の持っているものを全て捨て去り、全てを想い出さなければならない。その場面では、すっと、カラダが前へ出るものである。
だから、「自前」は「比較のしようがない」(本文)「世間」に鍛えられているのだ。

ちなみに自前の対が自立だとすれば、世間の対は「世界」である。
カラダが前へすっと出た時に、実は「世界」の前に立っているのである。
ディランは私たちの前に立っているではないか!
ディランは英語で歌っているにも関わらず。

by ihatobo | 2014-04-30 21:06 | 本の紹介