『ヒロシマ私の恋人』(マルグリット・デュラス ちくま文庫 1960年)
しかし、「実体」は遅い。とても。
喫茶店を行き交う「情報」も、全部について対応していたら、アタマもカラダも疲れ果ててしまう。
冒頭に置かれる“いいたまえ、何をみたまいしや”は、彼の作品「われらどこから来たのか?何物なのか?どこへ行くのか?」と対応している、と訳者はほのめかしているが、著者ゴーガンにしてみれば、私は何を理解しただろう、という問いであっただろう。
さて、この問いの遠い谺が『ヒロシマ 私の恋人』(マルグリット・デュラス 1960年)に響いている。
本書は翌年アラン・レネの監督によって映画化された。デュラスはその脚本を、監督、G・シャルロとの会話を経て書き、本書はそれにまつわるテキスト群を集めている。
日本で公開されたタイトルは「24時間の情事」だが、その濃密なファースト・シーンが終わると、彼と彼女の会話が始まる。
「キミはヒロシマで何も見なかった。何も。」
愛の交換(実体)のように気持ちの入らないコトバが発声される。
「私はすべてを見たの。すべてを。」
女もまたコトバを発声する。三~四回同じ発声が繰り返されるのだが、その度に意味が静かに備わってゆく(ように観る者は感じることが出来る)
映画は女の出演する映画の撮影が、ヒロシマで行われている、という設定である。戦争で、恋人の敵側兵士を失った女は、看護士としてヒロシマに赴任する。その地で建築家として政治にコミットもしている男に出逢い心惹かれる。
静かな映画らしい映画である。音楽はジョダンニ・フスコとジョルジュ・ドゥリュルー。
問いは問いとして残されたままだが、その後デュラスは変わることなくその問いを生きた。
by ihatobo | 2013-08-31 08:46