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『マインドフルネス そしてACTへ』(熊野宏昭 星和書店 2011年)

 秋が短く、あっという間に冬が来た。
 先週までは、晴れた午後は汗が出る程であったのに、夕方になると「秋の陽はツルベ落し」と共に急に冷え込む。
 今月はそれに連れていつもより冊数が多く、若い社会科学系の学者の対談、前回から続いている女性作家の作品、エッセー集を二冊、それと、当店の自主本シリーズの第一回目(87年)に、付き合ってくれた心療内科医の熊野宏昭『マインドフルネス そしてACTへ』(星和書店 2011年)などを、熟読、速読、読み散らした。
 『頼れない国でどう生きようか』(加藤嘉一/古市憲寿 PHP新書)は、相手(対象)や場合(場所)によって使うコトバとその文脈(背景、意味)がズレてくることが証拠立てられていて、そのことを念頭に楽しく読んだ。
 前に少し触れた『街場の文体論』(内田樹 ミシマ社)が強調するように、いま、その場に立って(当事者)先々の人生設計を考える、縮めてしまえば、この恋、この職場は、私にとって「損か得か」考えることの延長(時間的な経過)にはパラドクスが待っている、ということだ。
 その分岐点で、どちらを選んだとしても、その経過の中で当事者は、「損か得か」を常に検証している。つまり、それは"選んだ"ことにならない。何故ならいわゆる"迷っている"のではなく、自分の外へ、「自分から出られる」体験を回避してしまっているからだ。
 他人、他言語、いまと違う環境へ「意欲」を持って踏み込むことで、そのパラドクスを回避する。
 冷静で、客観的に記述すれば、その自分の状態(選んだ)を役割分担すればいい。その主体を自分ではなく「分人」(平野啓一郎 講談社現代新書)というらしい。
 さて、熊野によると、その冷静で客観的な視点(主体)が「気づき」である。ブッダその人の言葉の日本語訳である。ナーンだ。というところだが、私たち日本語グループはこの「気」を多用する。
「気が利かない」「気を使う」…果ては「空気」が読めない。
「空」も仏教用語だから、ブッダが知ったら目を回わすであろう。
 と、いうように私たちの使うコトバは奇妙である。そのコトバが分るから「不本意」であったり、「通じない」かったりする。
 熊野は「自己」の記述として、「プロセスとしての自己」(感覚が変容してゆく)「概念としての自己」(コトバ、意識による把握)と「場としての自己」の三層の自己を想定して記述(説明)している。
 要は、相手や場面によって変容してしまう自分を保証する自分もいる、ということに「気づ」けば、おおかたの場面は"リア充"で乗りきれる、ということだ。
 他に『戦う区長』(保坂展人 集英社新書)『伝奇集』(J.L.ボルヘス 岩波文庫 1944→2012年)を読んだ。

by ihatobo | 2012-11-28 14:33 | 本の紹介