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『半生の記』 藤沢周平

 そういえば去年もカラ梅雨で、六月一杯は肌寒い日さえあった。
 今年は強い勢力を持つ台風がふたつも上陸したが、東京は幸い被害は軽かった。
 しかし、七月になって、ある朝を境に夏がやって来たのも去年の通りである。
 冬が激しく寒く、夏は酷暑という、メリハリと呼んでいいのか、二年続いているこの温度差に、まだ慣れない。
 司馬が”歴史”小説ならば、少し年下の藤沢周平は”時代”小説の作家といわれる。
 しかし、それは商売上の便宜な呼び名で、例の大衆(通俗)、純文学のように、小説の中身とは関係がない。
「本好き」の吉野朋美は、オヤジは”時代小説”が好き、というが、彼女のメッセージは「本が好き」ということに尽きる。
 更にいえば、本のカタチを採っていれば、何でもいいのである。私もそのポイントだけは共有している。
 藤沢は27年山形、鶴岡に生れ、第二次大戦中に青春期を過ごした。
 『私の半生』(文春文庫)を見ると、経歴や作家像というよりも、戦後を生きた生活者という印象が私には残った。
 彼の作品本体を垣間見てはいたが、どうも何がメッセージされているのかが把れなかった。
しかし、生活信条がいわば御破算になってしまった戦後の”混乱”を彼は真当に生きた。
 「小説家になろうとは思いもしなかった」彼は、山形師範を卒業し、教師を目指すが、入院、療養生活もやがて体験、その一方でも平行している。つまり、そうした青春期の、今度は彼自身の混乱を、文筆のなかで秩序立てて行った。
 私にはそれがとてもよく分った。
 “時代”小説は、だから真当な日々が「あった」筈だ、という予感の下に、そのいわば”虚構”を受け継ぐ意志のようなものだ、と私は合点した。
 その意志によって開かれた枠組みは、ファンタジーに似て、人の気持ちや行為の細部の記述に適している。
 晩年の『夜消える』(95年)を読むとそれが分る。
 藤沢は人の社会性を背景に退かせておいてから、人と人、親と子、近隣、縁者とのエピソードを通じて、逆に社会や歴史、時代までをも浮かび上がらせてゆく。
 本作は単刊本末収録の短編を集めているが「遠ざかる声」は死者との会話を通じて、存在ではない命の実相にまで降りてゆく美しい文である。
 私たちの世代では、この世界は白戸三平、つげ義春らの“戯画”として認識していたが、解説の駒田信二がいうように、そこを文で綴っていたのを、今更に気づかされた。
 私たちの店の日常のある場面がそういう風に社会、世界に連なっている、と実感できることがあるが、それは文にはならない……。

by ihatobo | 2012-07-12 22:08