『いたこニーチェ』(適菜 収 朝日文庫)と『遠野物語』(柳田 国男 角川ソフィア文庫)

 いよいよ、私たちの店も開店40年を迎える(105日)。それにちなんで、東北地方をめぐり、各地域に伝わる民話を集めた『遠野物語』を紹介しようと考えたが、実際に読んだのは、もう少し北の物語。

 下北半島の恐山のいたこ(霊媒師)を狂言まわしに使ったF・ニーチェの解説・解釈本。

 鈴木大拙から逃れ、麿赤児へ至ったが、禅は紹介が出来ない。そもそも、紹介されるようなものではない。ギブ・アップ。そこで、40周年に借りて、本書の紹介に落ち着いた。


 しかし、言ってみればニーチェほど扱いにくい対象はないわけで、著者も、いたこの力を借りたのだろうと思う。「神は死んだ」とニーチェは書いたが、その神を彼は定義している。


―「神は本来、民族において民族の強さや民族の権力を、求める感情(!)である」(227P)― 


 「」内は句点で切って、フレーズを並列に並べると分りやすい。独語なので、主語が「感情」である。というのは、神は死んだのであり、感情も、いつ消え去るか分らない。神(権威)は横を向けば無くなる、ということだ。

しかし、神⇔感情というところが、ニーチェの凄いところ。にしても、神⇔感情は民族に関係しているのは確かだ、と言及しているのだ。危ういヤツに変わりはない。


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# by ihatobo | 2017-10-06 10:19

『定本麿赤児 自伝』(中公文庫)

 節分の頃に、若竹の如くグングンと陽が延びるのに比べれば、秋の陽は早々に暮れる。当然、夜明けも遅くなり、鳥が鳴き始めるのも遅い。一日のリズムが変わる季節である。どこからか金木犀の香りが漂うのも最近かである。

 さて、本書は1943年生まれ、私よりも5歳年長の舞踏家、俳優、作家である。私の若い頃は、この世代の活躍が伝わって来て、興味津々だったが怖くもあり、面々の芝居や映画、絵、現代詩/音楽など、それぞれ12回ずつ観に出掛けている。


 花園神社、アート・シアター、文芸坐、数々の個展、いづみ画材店、世界堂、音楽喫茶風月堂、らんぶる、ウィーン、池袋コンサート・ホール、銀座月光荘、佐作画廊…などなど。

日比谷で、『ラスト・タンゴinパリ』(ベルトリッチ/マーロン・ブランド/ガトー・バルビエリ 1972年)を観たのも、この頃。著者は“純朴そのもののオレが…”と書くが、私にはカッコイイとしか見えていなかった。

何を基準に、あんなクネクネとステージを這い回っているのか、さっぱり掴めなかった。それでも終りまで見て帰ったわけだから、理由は定かではないにしろ、魅きつけられ、感動していたのだろう。

ともあれ、著者は、その事情も分かっていて訥訥と書いている。こちらから眺めれば、狂乱乱舞でも本人は舞台の構想を練り、体調を整え、リハーサルして本番へと進むために、そのいちいちを確たるものにしていく。


 その途中で争いがあり、警察沙汰になっても純朴な彼は言い訳せず、開演時間に合わせようと専願する…と本文を読んでほしい。結局は、間に合わなかったのである…。サスペンスやミステリーよりも面白い。

 前回に続いて、『東洋的な見方』その3を書こうと思ったが、本書は出たばかり(8/25)で手に入りやすいので、取り急ぎ、紹介しておこうと思った。安価だし。
 次回は、その3に挑戦して、結びとしたい。



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# by ihatobo | 2017-09-29 09:51

『東洋的な見方』その2(鈴木 大拙)

「不立文学」以前に私をパニックに陥れたのは、「父母末生以前の本来の面目」で、これは父と母が生まれる以前の自分を想ってイメージしてごらん、という公案で考えようがない。公案とは、禅の修行の間の中間試験のようなもので、ある段階を、造ってゆくのだ。
 イジワルである。考えようのない問いに応えようとして、修行は進む。大体、お分かりと思うが問いに正解はない。問題が、ない訳だから…。
はぐらかされているように感じるが、そこは著者がフォローを入れている。

 ――― 思索家は、いつも外にいて、すなわち、客観的態度なるものに、習慣づけられているので「思い切った」という心に、なりえない。 そこに禅底と一般哲学者との間に、越えられぬ障壁が立っている… ―――――


 と書いて、ギリギリ自ら解説をしている。力業である。世界的見地から禅の独自性を、表現したかったのだろう。力こぶが入っている。

 前回、触れたように、禅とジャズについて次回に触れて、本書の紹介を締めくくろう(から逃げ出そう)(苦笑)。


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# by ihatobo | 2017-09-22 09:22