新作より他の過去に書かれた小説の記述を辿るうちに、その時代の風俗、文化が生々と見えてくることや、近代になれば国境をめぐる経済、政治、法が周辺を含めた人々に何をもたらせたのかが分る。
それを「歴史」というコトバで知の蓄積をしてきたのも、近代である。
本書はアルベール・カミュの作品を批評、分析しながら、その短い生涯を明らかにした“作家論”である。
しかし、たとえば代表作である『異邦人』(57年ノーベル賞)を、私たちは小説(ロマン・ノベル)として認識しているが、訳者あとがきによると、カミュ自身もそれを物語(レシ)と呼び替えている、という。
つまり、時代への「参加」という側面では「歴史」書であるという。
ところが前回の筒井康隆の訳す『悪魔の辞典』(アンブローズ・ビアス 講談社 1911→2000年)によると、「歴史」とは、
ー だいたいにおいて悪漢である支配者と、だいたいにおいて阿呆である兵士が惹き起こしていた、だいたいにおいてつまらぬ出来事の、だいたいにおいて間違った記述
とある。
アンブローズの本は1911年に発刊しているので、前回述べたように、当時に歴史なのか、物語りなのか、いや新たに「小説」というものが独立すべきだ、という揺籃する時期を反映した記述になっている。
どこがどう違うのか、そもそも何故その呼び名にこだわるのか、それを考える“補助線”になるのが、「ヒストリー(歴史)の初めの2文字hとiを除けば、ストーリー(物語)になるでしょ?」というこじつけがある。
そのオチはhis―story。
そうではなく、「小説」なのだ!というのが、カミュにも筒井にも共有されているもどかしさ、である。
私自身は加えて歌唱(chant―son)が時刻を孕んで成り立つことを強調して、もどかしい想いを、ここで吐露しておきたい。
『本の森の狩人』はまた次回に。