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『首相官邸の前で』(小熊英二 集英社インターナショナル 2017年)

 今回は新宿つながりで、オーディオ・ユニオンに向かう途中、紀伊國屋も観ておこうと寄ると、店先に出店していて、又吉直樹ら話題本に混じって、集英社から出たばかりの本書に目が止まり、最速買った。

新聞書評は、取り上げてはいない隠れ新刊である。ホント、情報をキャッチする手立てが、私は不足している。で、読み始めたのだが、冒頭に高橋源一郎による著者インタビューが載っている。高橋と小熊は7年前の文学界(5月号)で対談しており、今回は高橋が聞き手に回った。
 そんな、やりとりから始まって、前回を引き継ぐように現実、事実の大切さ、そして、それを持って展望を開くことが、方向を決定することが語られている。
 現在は、そのインタビュー(対談?)までを読んだ。次回に、また。

 さて、数学者のアンリ・ポアンカレの数学における論理的展開の重要性、学生に伝える際の要点など、物理、天文学などの背景を持った数学の概念の内容を詳述した『科学と方法』(訳・吉田洋一 1926~ 岩波書店)を、いま読んでいる。なんとなく両書は、一脈通じるものが、あるような気がしている。
 こうしているうちに、猫の額ほどの地面に植えた桃の木が、ほぼ満開になっている。私の近所の桜は、まだ二分咲きだというのに。
 順番が逆である。やはり、天候不順だろうか。
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by ihatobo | 2017-03-31 22:25

『ゆかいな仏教』その2

 「教える事ではない、自分で」と仏に言われると、さて何をしたら仏のようにサトレルのか、と自分で考えるが、当然、突っ掛かりもないから、とりあえず寺に行って線香でも焚いてみる。何も感じなければどうこう、何かを感じればどうこう、としばらくの間は堂々巡りである。
 そうしているうちに、何かがピカッと光る。キリスト教で言えば、啓示である。そうして、やっと頭が回り始める。回り始めた頭を使って内省しても、たいした突っ掛かりにはならないが、ブッダに言わせると、それで仏になったということになる。
 しかし、そうはいっても日常の何かが変わるわけではない。つまり、ズルいというか、シンプルではある。仏の言うことは。

 さて、今日、平年より4~5日早く桜が咲いた。やっと春が来る。自宅の桃も、蕾がほころんだ。思えば、この冬も一通りの自然現象が、やって来ては過ぎ去った。この本とは距離を置いておこう。
 まずは先回、紹介した新宿で「最後の一番小さな店」から5分。新宿ゴールデン街の「クラクラ」まで行ってきた。飲みに行ったのではなく、店のCDプレーヤーの調子が悪く、適当なプレーヤーを探しにオーディオ・ユニオンに下見に行ったのだ。丁度いいのがあったので、今週中に買ってくるつもり。
 引っ越しの季節柄、大量のCDが入荷しました。順次出してゆきます。それから、去年イチオシのバーバラ・リカが完売。また入荷します。
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by ihatobo | 2017-03-24 10:24

『ゆかいな仏教』(橋爪大三朗 大沢真幸)

 仏教は、仏像、寺、除夜の鐘、花祭りなど私たちは、すぐにイメージを描くことが出来るほどに、よく知られているように思っているが、実は今、上げたどれにも仏教の本質、仏教らしさはないそうである。本書は、そうして浅い認識を深化させて、本質に迫ろうとする概括書である。
 そういえば、外国の方などに説明する場合に、とかく、その浅い認識に基づいて寺に案内して境内にある墓で、線香を焚き、鐘楼で鐘をついてみせる程度である。手を合わせるなど。

 しかし、国内にあるキリスト教会へ行ってみれば、何か妙なる音楽が聴こえてきそうな雰囲気のなかで、どの教会でも同じ格好をしたキリスト像に、手を結び、手を合わせる。祈りの言葉はあるが、聖書の棒読み、お経のように長くはない。どちらも同じような事をするが、何かが異なる。
 本書が教えてくれるのは、仏像がうっすらと笑みを浮かべているのに対して、キリスト像は頭を垂れ苦しそうである、と。そして、祈る側の私たちは、その際に受け取るメッセージが真逆の印象を受け取るはずだ、ということが述べられている。
 つまり、仏とは、いつの時でも自らのサトリを開くことに価値を持っているのに対して、キリストは神自らが原罪を償ったから、首垂れている。その信柳者の姿が導いたから祈る、という。キリストは、神が受肉した人間なのである。

 その側で滋悲深い。
 それに対して、ブッダは、どんな人間でも修行してサトリを開くことが出来ることを、前提にしている。あの笑みは、“だから、しっかり”という意味だそうである。
 即ち、仮の姿であっても神はキリストに宿っているが、仏はサトリを開いたら、後はもう知らないよ、自分でどうぞ、という。核心は「空」なのである。トホホ。

 対談者、橋爪はポップ・カルチャーまでを研究対象にしている。片や大沢は、思想/哲学を対象にしている、共に社会学(社会という現象を科学する)者である。
 入り組んではいるが、大変軽い語り口の対談である。仏教系の出版社、サンガから13年に出版された。
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by ihatobo | 2017-03-17 05:10

『YMO』ベスト・セレクション(1978-1998年 SONY)と『笑い』

 家人が何を考えたのか、本作を買いに銀座山野音楽器へ行ってきた。
 YMOは、78年の秋に紀伊國屋ホールで実質デビューしたから、この店の開店した翌年。
 当時のジャズ・シーンは大雑把にいえば、“マイルス一辺倒”であったアメリカに比べ、ヨーロッパでは各国に、それぞれ新しいレーベルが興されて、その国のジャズ人口が増えた事を物語っていた。
 ジャズは基本的に、その地域のフォーク・ミュージックの活性化だから、この頃になるとアメリカ当地でも様々なスタイルのジャズが演奏された。

 日本でも、それ以前に民謡のジャズ化の試みはあったが、時期的には本作のようなロックやソウルの型を借りたものがポップ・ミュージックだった。
 本当のことばは隠れ易い(星の王子様)というが、例えば芝居を観ていて「笑える」場面というのは単におかしいからではなく、観ている私の内部で何か思い当たる節があるから笑うのである。
 落語のおかしさは、マクラ・フリ・オチという型に、はまっているから客は安心して笑えるが、だからといって、その型通りにダラダラ喋ったとしても笑えるものではない。その噺家の間やテンポが分かっていて、客は笑うのだ。
 つまり、何らかの芸を披露したからといって、笑いが起こるものではない。「笑い」の構造は、込み入っている。

 ジャズやロックの型で、歌い演奏したとしても、感動がやって来るとは限らないのと同じである。本書は、その「笑い」を研究した哲学者の論考を集めたもの。ジャズやロックが発祥する以前の1900年に出版された。
 リアルタイムで、進行する芸術がなかったフランスにおいて唯一、芝居だけが、その役割を担っており、彼は、それをモリエールたちの目指したギリシャ悲劇(喜劇)の翻訳舞台に題材を求めて、その研究成果を世に問うた訳である。

 要は、人間そのものの研究(哲学)である。
 YMOも今、聴いてみると懐かしさもあるが、笑えるのであった。
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by ihatobo | 2017-03-10 09:46

『新宿駅最後の小さなお店ベルク』井野明也(ブルース・インター・アクション 08→14年 ちくま文庫)

 前回は、チェーン店や大規模店ではない、個人経営による飲食店を著者とクルーが取材して成立した本だったが、今回は、編集の意向で店主が執筆した作家で言えば自叙伝。私たちの店も同様の営業形態であるために、発刊当時、興味津々で買い求め、良かったら卸してもらって売ろうと目論んだ。
 ところが、他にも売りたい本があったので、ぐずっているうちに欲しいというお客様がいたので、売ってしまった。
 で、今回初めて読み通したのだが、この時代法律も含め、著者の店が同様の困難(ストレス)を抱えていることが分かり、身に詰まされた。(契約書にサイン・捺印する際は、内容を精読すること)その他に、スタッフ間の会話、メニューの開発、応募してきた新人の面接の要点…などなど、現スタッフにも読んでほしいと思った。

 様々なハプニングに備えて、「その時、自分で考えて判断してください」と指示するのは同じだが、トラブルしたら俺が責任とるから、と私は言い添えている。
 しかし、本文にもあったが、コツや仕切り、段取りを教えるのは難しい。本人が、店の仕事に情熱を持って臨めば、自然に、その場を乗り切るコトバが出るのだから、つい教えるのに付きっ切りにならざるを得ない。

 著者はロック・バンドに例えていたが、この店では“テニスのコーチ方式”と言っている。ボールを真芯でとらえるのに、全身の筋肉や身体のバランス…を一気に伝えることは出来ない。やるとしたら、身体を密着して背後から覆いかぶさるしかない。パワハラ?セクハラ?
 私たちの店の連絡ノートも、そのような記述が中心になっている。開店当初からだが、何冊になるだろうか。
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by ihatobo | 2017-03-02 05:27