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『定義集』(大江健三郎)その2

 線は引かれ/悪態がつかれ/今は、なかなか前に進めないものも/やがては、どんどん道が開けることになる/今は、やがて/昔となり/秩序も、あっという間に/廃れていく/今は一番の者も/やがては、ビリとなる/だって時代は変わっていくのだから

 (The Times They Are Changin Bob Dylan 訳・中川五郎 1964年)

 今年、印象的だったのは大震災後、5周年ぐらいで、あとは時の流れ行くままに、怠惰な時を過ごした。時が流れゆくのは速いものだが、
 ディランの詞は、どんな状況を想定しても各々に抵抗していて、普通を実現している。この速い流れの中で、流されず静かに停まったまま動かない。
 大江の本も一字一句も、濃い時間が溜まっていて重い。きっと、永久に残るであろう。

 今年も本ブログに付き合ってくれて、ありがとうございました。
 新しい年も、頑張ります。よろしくお願いします。

                                  2016年12月27日
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by ihatobo | 2016-12-27 10:09

『定義集』(大江健三郎 朝日文庫 2016年)

 ボブ・ディランとは同世代で、同じ文学賞を受け取った、大江健三郎のエッセー集『定義集』を読んだ。ディランとは異なり受賞記念講演を、その場で披露した彼は、文学者として認識されるが、エッセーであっても定義になってしまうのが彼らしい。

 本文が書かれたのは、06→12年であるが、彼の受賞は1994年、その全文は『あいまいな日本の私』(岩波書店)として公刊されている。その際も読み、本ブログでも紹介したが、両義性という意味のアンビギニオスの文学における意味を講演したものだった。かねてから、彼の人柄の誠実さに魅かれていた私は、講演本を読んだのだったが本書では、更に、その人柄を持って生き、行動する彼の実際が綴られており、感銘を受けた。

 ディランの歌詞の内容にも同じ感銘を感ずるが、大江から受けるものは、より具体的で直接の倫理を揺るがすものであった。
 たとえば、1995年に始めたギュンター・グラスとの重複書簡で、大江が受け取った第一信で、グラスが“いつまでも、ふさがろうとしない傷”は、“私らの近い未来に、立ちふさがっているのだ”と大江は答える。

 そして、ノーベル賞100周年記念ジュビリーの会場に居合わせたグラスが、大江に近づいてきて、彼の礼服の衿かざりをクルリと整えるのだ。なんとエレガントで、微笑ましい光景だろうか。
 私は、見果てぬ夢を見ているような気持になった。
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by ihatobo | 2016-12-22 07:55

『心の力』(尚 向中 集英社新書 2014)

 本書タイトルのように、ヒトには「心の力」が必要であり、その力で物事を処理して行くわけだから、逆に言えば、そうした経緯が心を強くしてヒトの日常を支える。恐ろしい出来事に出くわしても、“じっと見つめる”ことで乗り越えることが出来る。

 公開している著者の経歴を見ると、自分の体験を元に小説を書いているようだが、本書に挟まれている小説を読むと、著者の本分である社会科学の成果が展開されている。科学(事実の解釈)では表現しきれない部分を、小説の形式を借りて伝えようとしたようである。
 この小説だけを取り出して短篇にしたら、素晴らしい作品になると思った。

 ところで、授賞式をスッポカしたディラン先生は、4月に当地・スウェーデンで記念講演(コンサート)をやるようだ。
 立派なものである。
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by ihatobo | 2016-12-16 11:00

『社会学講義』その2

 前回を引き継ぐ、というよりも一度大枠に戻って、そもそも学問全体のなかでの社会学の位置を考えてみると、社会科学は経済、政治、法、商学、歴史学があるが、どうもその全部が社会の現象を扱っている訳だから、社会科学のことをまとめて社会学、としてもいいような気がする。というのが素直な、一般的な見方だろう。経済現象を扱うのが経済学なのだから。

 しかし、ここで歴史を思い起こしてみると、社会学というのは新しいのである。せいぜい近代になってからで、100年程しか経っていない。
 本書の章立てを見てみると、まず①概論があり、その②理論を扱う理論社会学がある。そして③都市社会学④文化社会学、と続く。
 もちろん都市、文化は近代になってから成立したものを扱うわけだが、一般には都市論、文化論としてくくられるジャンルである。要は、オート・ファージを見つける事である。自分のうちにも。そして更に⑤家族社会学、と続き最後は社会調査論である。

 そうして、大枠を知り、⑤をやや詳しく見てみると、家族が大枠で構成する個人の性格や個人の間の親密さを測るのでは決してなく、あくまで、それは社会のなかの社会を扱っていることが分かる。入れ子構造なのだ。それを、丹念に一本一本の柱を調べて、あるルールを発見しようとするのが(家族)社会学である。
 誰ひとり家族に属さない個人は、いないいのだから。
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by ihatobo | 2016-12-12 10:35

『社会学講義』(橋爪 大三郎/大澤真幸 監修 ちくま新書2016年)その1

 前回『音を視る、時を聴く』(大森荘蔵/坂本龍一)で触れたように学者/専門家は、その領域の用語を組み合わせて、自己の表現(主張)を型にするものだが、本書で使われる専門用語は、大変多い。それらが順列/組み合わせの如く、次々と文の中に登場する。

 ひとつひとつを、繰り返して読んでいけば分かるのだが、そこを貫いているのが、論理学で使われる自己言及性である。著者のひとりは、それを「循環の構図」として全体を述べるが、それよりも先がある。家族社会学のセクションでは、家族こそ社会学されるべきであるというセクションまである。
 全体として魅惑される文が連なっているが、ひとつひとつの順番を把握することも大切だが、そのひとつひとつを見定めて、読んでゆくことが大事である。社会学を知らなくても楽しく読める本である。
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by ihatobo | 2016-12-09 10:04

『わたしの小さな古本屋』(田中美穂 2012→16年)

 この手の本は、よく見かけるのだが、大方は趣味の本好きが嵩じて“自分の好きな本たちに囲まれて、日々の生活を送っています”風の、手に取るまでもないバカバカしいものが多いが、本書の著者は少し変わっている。
 著者は蘇苔類、即ちコケの研究者である。
 何でコケと古本?と考えるが、コケの存在と自分のそれとを重ねあわせている記述が随所に見られる。古本もコケも、隅の方で暗がりにひっそりと佇んでいる。近寄ってよく見ると、その本の来歴や、ひっそりとした自己主張が伺えて、愛おしくなるものである。

 ただ、著者のいい回し、文体が、いかにも持って回っていて、ハナにつく。決して、これ見よがしの主張はしないのだが、古本屋のあのカビ臭い暗さが、苦手な読者もいるだろう。
 そこで今回は『ブンブン堂のコレちゃん』(グレゴリ青山 ちくま文庫 2013年)を読んだ。といっても、マンガを挟んだ「バイト日記」である。しかし、こちらは大坂らしい明るさに充ちていた。
 どちらもオススメの本屋本である。
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by ihatobo | 2016-12-02 08:46