<   2016年 07月 ( 5 )   > この月の画像一覧

『テロルの伝説 桐山襲烈伝』(陣野俊史 河出書房新社)

 桐山のデビュー作『パルチザン伝説』の書名は知っていたが、それが書名なのか、映画のタイトルなのか、まして著者の名すら私は知らずに過ごしてきた。
本書著者も“はじめに”で書くように、桐山襲の読者が一人でも生まれれば、幸甚であるとして桐山の作品に対する驚きを叶露している。私は桐山については無知なので、本書に何を期待したのか不明だが、著者の情熱は伝わってきた。

 「パルチザン」は党人のことだが、第2次戦争末期にイタリアで反全体主義を斗った同誌のことでもある。ともあれ、桐山は私と同じ世代、団塊の世代と呼ばれる世代に属している。『パルチザン伝説』が83年だから、この店が始まって6年目のことである。
 そこで扱われる諸事件に関しては、新聞等の報道で知ってはいたが、その詳しい内容は知らなかった。友人の死や、それらの動向は私にまで伝わって来たが、著者ほどには関心を持てずにいた。恥ずべきことなのかも知れないが、店の運営の方が面白かったのである。
 本書著者にも、その事が感じられるのだが…
 まだ、2割くらいしか読んでいないから、何とも紹介が粗末になったが、また後日に紹介を進めたい。
[PR]

by ihatobo | 2016-07-29 07:40

『花森さん、しずこさん、そして暮らしの手帖編集部』(小榑雅章 暮らしの手帖社)

 時宜を得て雑誌『暮らしの手帖』の元編集長が書いた「暮しの手帖」のいわば評伝が、出版された。著者は1960年に「暮しの手帖」社に入社し、70年まで勤める。その退社の折、花森に諭されたという。

 この雑誌にふさわしく、極めて具体的に編集作業の実際を、詳しく教えられていたというが、それにも増して、この雑誌の読者に対する誠実を、この時、感じたらしい。つまり、彼は花森の言う“実際に役立つ本”に居住いを正したのだと、私は思う。
 折しも、海外でも若者が実際に対して関心を集中させ役に立つものと、そうでないものを峻別し、漫然とした社会に異議を申し立てていた頃である。その中で、同誌の看板企画である新製品の機能テストは、誠実の側から世の中に異議を申し立てたもので、大変な手間暇を掛けたものであったらしい。

 今回そうした視点で読んだのが『嫌われる勇気』。だが、こちらは哲人と若者の質疑応答なのだが、話題が複雑で、実際には役立ちそうにない。
 この店に置き換えれば、コーヒーの段取り、レシピを出す訳にはいかないが、極めて誠実に物品/サービスを提供しているつもりである。確かに効率は悪いのだが、実際、長持ちしているのである。
[PR]

by ihatobo | 2016-07-24 20:35

ポォ評論集』(エドガー・フラン・ポォ 八木敏雄・訳 岩波文庫 1831→2009年)

 前回の吉増『我が詩的自伝』が、「非常時性」から始まり、「歌う」ことへと至る詩論とすれば、現代詩人を自認する吉増が、依って立つ固有名は、エドガー・フラン・ポォを措いて他ないはずである。
ポォの名は先回の坂口安吾の『桜の森の満開の下』の英訳者、ロジャー・パルバースにおいても、その翻訳者ノートにおいて引き合いに出されていた。

 本書は文庫版刊行の折に本ブログで紹介したが、新たな文脈を得て、再読した。文庫版刊行時には、ポォ誕生200年(2009年)で、そうした状況で紹介文は作られたのだったが、本書には詩作品と批評文が併せて構成されており、既に詩/批評が詩人であることを実現している。
 吉増も語るように、快楽を求めた先に詩が残り、声が残るのである。つまり、残された詩作品は再読されて初めて作品として完成する。本質的に読まれるものとして、存在していることになる。
 苦手だった私も、そうとなれば再読しようという気が起るのである。
 しかし、貧弱な私だから再読というよりも、近頃鳴きはじめた蝉の声をボーっと聞くのが、ぜいぜいで再読どころが“再音”を聞く、というのが正直なところだろう。ところで、あれはセミの声だろうか、セミの音なのだろうか?
[PR]

by ihatobo | 2016-07-14 08:59

『我が詩的自伝』(吉増剛造 講談社 現代新書 2016)

 この店を始めた頃に、吉増剛造さんのことは知っていた。『黄金詩篇』(1970)に、「下北沢 不吉」が繰り返されているのを、いつの頃か、誰かに教えてもらった。
 彼はその頃、上原や池ノ上に住んでいたらしい。奥さんがブラジル人で、しばらくそちらで暮らしていたことも知っている。詩集も実際に手にして読んだ覚えもあるが、今はない。というのも、私は詩というものが分からないのだ。俳句や和歌、漢詩は結構好きなのだが・・・

 本書は口語体の自伝で、自らの作品にコメントをつけること、そして、その作品の頃の自分の状況や時代背景などが、かなりコンパクトに語られている。そういう訳で、彼のエッセーも含めて、作品集は手許に居ついたことはない。
 しかし、詩とジャズのイベントには何回か出掛けたことがある。下北沢ロフト、渋谷ジャン・ジャンといった場所だったと思う。あるいは小さなバーとか、珈琲屋とか、書店とか・・・
 その中で、70年ごろになると、友人達と「逢いにいこう」と言い合っていた当時のスターの名も出てくるのだが、吉増は既に、そうした人達と仕事をしていた。ミーハーの私にしてみればショックで、またそうした事柄も私のミーハー度を上げてしまう。
 しかし、その中で、この店の前に勤めていた雑誌社があって、そこを紹介してくれた副島輝人や、その編集部で原稿をお願いした高橋悠治さんなど、このお店に何度か来てくれた方々もいた。それでも、文中に出てくる方々は、やはりお偉方で、一介の喫茶店主はため息のつき放しであった。

 本書では、詩が生成する様子を「非常時」というコトバで解説しようとしている。あるキッカケを得て、詩の運動が始まり、切迫した状況が作り出される。その全過程が、とても速いのだ。その速さの故に、本人も気づかぬうちに(無意識)に詩が生成し、コトバが残る。
 彼は、そうした事柄を幼い頃から体験しており、コトバが少ない頃は絵を、カメラを知ってからは写真を写し、それぞれが残っているそうである。まさに本書が、彼の詩的自伝となっているようである。
 その時々を、彼はコトバを以って、確実に斗っていたのだ。恐らく今現在も。斗いは続いている。
[PR]

by ihatobo | 2016-07-08 09:46

『桜の森の満開の下』(坂口安吾・著 ロジャー・パルバース・訳 ちくま文庫 1947→98年)

 波打ち際の男女が、フォト・セッションをしている。男の方は、波の中に椅子を持ち出して座っている。どうやら被写体は、その男性のようだ。私は浜の奥から、それを眺めている。
 しばらく動き回ってセッションが終ろうとする頃、女が不意に振り向いて、こちらにカメラを向けた。焦点を合わせているのだろう、彼女の動きが止まる。間があって、このセッションは終了したようだった。ふたりは持ち場を離れて近づいてゆく。あたりに波の音が静かに蘇ってきた。

 そんな情景を捉えたカバー写真を持つセルソ・フォンセカ 2003年のアルバム『ナチュラル』(クラムド・ディスク coc8-5089)。このCDを聞きながら『桜の森の満開の下』を読んだ。
 前回の『ナジャ』の構想を得て、製作に励んだのが「アンゴの館」であったので、語呂合わせで今回は坂口安吾の本書を選んだのだったが、まるで見当違いでもなく、内容は客観的偶然に支配されているようだった。

 本書は、初め宮澤賢治を英語訳しているロジャー・パルバースの固有名を理由に買ったのだったが、この日本語文学の研究者は、世界の中でケンジやアンゴを選んでいるのに驚かされる。英語、日本語はもとより、ラテン語と果てはポーランド生まれのエスペラント語までを研究対象にしている。
 本書でも前半の対訳と、後半の訳者ノートが配されていて、この部分も大変に興味をそそわれる。面白いのだ。タイトルの英訳は In the Woods Beneath the Cherry Blossoms in Full Bloom である。
 一冊で二度楽しめる本である。
[PR]

by ihatobo | 2016-07-03 05:29