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『お嬢さん』三島由紀夫(角川文庫 1960→2010年)

 このところ、読んできた小説に三島由紀夫がどことなく滲むので、その原因を探るために『宴のあと』と同時期に発表された『お嬢さん』を引っ張り出して読んでみた。今のところ分かったことは、彼の持っているテーマは同じであっても、その手法によって印象が、ずいぶん変わるということだ。
 それは彼の多彩な才能でもあるのだが、小説がエンターテイメントであることを証明している。生きていれば91歳の国民作家になったであろう彼の自刀が惜しまれる。

 先の橋本治では台本のト書を思わせる会話によって、作者のメッセージが落語の形式を借りて伝わる仕掛けだが、本書では登場人物たちが語り合うことによって、事態の進行に「鏡像」的に内面が与えられ、小説に厚みが加わる仕組みである。
 いずれにせよ現在進行する臨場感を持ち、より詳しく語れることで、出来上がり自体がリアリティのあるものになっている。事件的作品といえば、いいのだろうか。
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by ihatobo | 2016-05-28 21:14

『片意地へんくつ一本気』(橋本 治 文集文庫 1997→2002年)

 この作家は以前から気になっていて、雑誌などにエッセーが載っていると読んでいたが、先回の『夜』の微に入り込む人の心情の描写に感服し、また別の作品ということで、本短編集を買ってきた。この連作短編集のタイトルである「片意地へんくつ一本気」が、冒頭に据かれた表題作なのだが、副題によると伊豆下田のうなぎ屋・風流噺である。
 それで読み始めると、話の舞台は何とジャズ喫茶である。その名も名盤「ブリリアント・コーナー」(セロニアス・モンク 1956年)である。
 文中には枯葉(キャノンボール・アダレー)MTQ「ジャンゴ」と名立たる名演が出てくる。それらをクール・ジャズと言っているのが気になるが、本作の本質には関わりない。本質は副題の「風流噺」にあり、そこが何ともかわいい。

 思えば、ジャズとは風流以外に何物でもないのだ。偶然とはいえ、大変得をした気分で読み終わった。その作家に、ますます興味を持った次第である。
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by ihatobo | 2016-05-20 10:03

『生命と物質』その2

 この本で、もうひとつ学んだことは、ダイナミックで複雑な生命の現象と音楽という、ヒトが作り出した事象との比較、分析を目指したことである。
 もっとも、この方向は失敗に終わり端的にいえば、楽譜に写された音楽を分析することで、本は出来た。私個人は、いくつかの概念を考えたが、いずれも、もうひとりの編集者を説得できなかった。あとで考えれば、それは当然で、音楽に関するといっても、私たちは本を作っていたのであって、音楽を作っていったわけではない。
 そうした過程を経て、もうひとりの編集者は、その後『ビートルズの作り方』という本を作った。私はと言えば、ある音源を見極めて、それをある秩序(歴史、音色など)によって組み立てる、というコンパイル、つまり店で流すCD、レコードを選曲する、という作業に軸を移した。
 それによって、かける音源の数が飛躍的に増えることになった。(つづく)
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by ihatobo | 2016-05-19 09:46

『精神と物質』(利根川 進×立花 隆 文集文庫 1990→93年)

 本書は、私達がある音楽家に関する本を造っている際に、参考資料として読んだ本の一冊で、大変参考になったのを覚えている。今から30年近く以前のことで、それらの本たちは手放してしまったが、本書は今も手元に残っている。その後、文庫が出たので、その序文を引き合いに出そう。
 ワトソン=クリックによる二重らせんの構造が明らかにされた50年代から、分子生物学が始まったのだが、それ第一期とすると、その生体の免疫システムとのアナロジーを経て、現状は「抗体の多様性生成の、遺伝学的原理」の解明へと向かっている。

 その流れは、必然的に進化の問題と絡んでくる訳だから、より細密に、かつ鳥瞰的になり、よりダイナミックで複雑になっている。その詳細が、立花 隆のインタビューによって述べられている。立花は、その作業を20年にわたって続け、本書にまとめた。
 生命という現象は、とりもなおさず、そのように細密で鳥瞰的なのだ。じっくり時間をかけて、読み進めることをオススメしたい。
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by ihatobo | 2016-05-12 08:58

『思考の生理学』(外山滋比古 ちくま文庫 1983→86年)

 最近、本書の著者名をよく見かけるので買ってきた。英文学の研究者と肩書きにある。数多い著作のうち本書を選んだ理由は、ピケティ(仏・経済学者)で有名になったセレンディピティの項目が、目次にあったからである。セレンディピティは便利そうな概念で、文字としてよく見かける。

 外山によると、
   ――由来はセイロン(スリランカ)の童話で、18世紀の文人、ホレス・ウォルボールが“セイロン的”という程の意味で、この語を造語した――
                                          という。
 比喩とかアナロジーとかいう方法として、広められたらしい。

 さて、ピゲティの回に少し述べたが、私の友人のコトバである偶然力として、このコトバを認識していれば、大過ないようである。
 本書は、「思考の生理学」とタイトルされているように内訳を、いちいち記して、いわば促然の本質を描こうとしている。述べられているように、私自身がそこに準拠しているように思われて、驚いた。
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by ihatobo | 2016-05-06 21:28

『夜』(橋本治 その2)

 第4話「暁闇」のとこがドキリとするかといえば、男性同士の性愛のことではなく、「好きになっちゃった」から「会わない」という男は、まず、どの場合の恋愛当事者には、ごく一瞬の間でも起こり得るし、その男の「正体」を知りながら受け入れる男というのも十分あり得る話である。
 そして、その男たちを眺めながら「両手に花」を楽しむ女というのも、よく見る話である。つまり、単に恋愛小説であるにも関わらず、何かがドキリとさせるのだ。

 主人公三人は、自分達の内にある欲望に翻弄される。三人のうちの一人の欲望に、他の二人のどちらかが応える。応えようとするのも、その一人の欲望である。「応えたい」という。その「欲望」の連鎖が改たな「欲望」を引き擦り出すという具合だ。
 その事情をサイドで読んでいた女性エッセー「持たない暮らし」(下重暁子 中経の文庫 2000→08年)が述べられている。「必要」な「本物」は一目で分かるから「ちょっといいもの」を買うな、と下重はいう。本物は永く付き合える、と。
 つまり、主人公三人はいづれも自分に芽生えた欲望に従っている。それだから、三人といえども、他人の性にはしない。真っ当に自分の生を生きている。

 それが「本物」に読めるから、この物語は悲しい。読んでいて頭がこんがらがるのだが、ヘトヘトになりながらもページを綴った。
 ただ読み終わると、この物語の本当の主人公は登場しない「父」ではないかと思った。唯一文中に、「抽象的な意味を持った特殊な感情」が父ではないかと男が語る。
 機重にも哀しい物語である。
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by ihatobo | 2016-05-02 09:58