<   2016年 02月 ( 5 )   > この月の画像一覧

『歓びの島』(津島佑子 中公文庫 1978→81年)

 津島佑子さんが亡くなった。(18日)私の一つ年上だから、早世である。決して熱心な読者ではなかった私に、しかし小説という型式が得難いものである事を、教えてくれる作家であった。私の読書量では、他に似た作家を思い廻らせると、富岡多恵子の名が、すぐに浮かぶ。

 男女の性愛と、その先あるだろう家庭を、題材に選んだ作家であることが共通している。そして、共に構成が幾重にも込み入っていて、物語を追ってゆくと、細部に捉われて、眩惑させられるのも同じである。
 登場人物たちが身に迫ってくるのだ。明るさと、 生産的であることを追い求めながら、いたしかたない現実に苦しむのも似ている。
 その意味で、生来ずっと読み続けられる、真っ当な作家である。親しい人の死に寄せた、人間の手記のように、心を宥めてくれる。

 それでも原子エネルギーの強大さと、それ故の恐ろしさについて、ギリシャ神話を援用しながら、人間にとっての本質的な悪魔性を非難して、積極的に発言を繰り返した。
 得難い文人である。
 音楽にも造詣が深く、本書タイトルは、ドビュッシーからのようです。
[PR]

by ihatobo | 2016-02-24 10:07

『宗教の理論』(ジョルジュ・バタイユ ちくま学芸文庫 1973→2002年)

 バダイユといえば、重力である。それは『宗教の理論』で述べられている。宗教?理論?重力?とおよそ畑違いの単語だが、それが結びついているのである。
 前回の「空の青み」における、空の青みの中へ飛んで出たい、という衝動と、それは関係しているからだ。
 ところで、重力波の観測に米を中心としたチームが成功したが、これは重力は重力でも、その波だから、それを観測したということは、重さが目に見えるということで、画期的なことであるということになってはいる。が、だから何?といわれると、私を始め研究者は困る。

 何が画期的かというと、PC対称性の破れ という理論があり、重力波が生じた頃に巨大なエネルギーが生まれ、そこから物質と反物質が生まれた、ということだが、当然その後、物質は宇宙を生成し反物質は消えた、ということになっている。が、それでは合点がいかない。
 そこで、巨大なエネルギーをブラック・ホールとし、それは大変重い。ということにすると、そこに周辺の物質やら反物質が寄って来る。重力が発生し、そこへ落ちてくるといえばいいのか、流れ星が地球の引力に引かれて落下するようなものである。
 そこに運動が起こっているわけだから、波が起こる。丁度ネットの上に何かボールを落とすと、ネットはへこみ、反作用でボールを押し上げるから波が起きる。

 そのような過程が、本書で語られている。話題は、社会学が扱う分野であり、言語学(記号論)、哲学(A・コジェーヴ)、数学、生物学(進化論)、精神分析学など多岐に渡るが、要は作用・反作用といった働き、機能(器官)を迫りながら、中心的にフロイト=ラカンを軸にした人間性論である。
 前々回、紹介した『ジュールトリュール』(ロマン・ロラン)など、ここ数回、扱っている個有名が多出している。『空の青み』のような物語として成立しているのとは違い、いわば草稿である本書をガイドに色々と思索にふけるにはオススメである。
 それにしても、西欧の書物はカタイ。つまり参考書である。
[PR]

by ihatobo | 2016-02-19 11:16

『空の青み』(ジョルジュ・バタイユ 河出文庫 伊東守男 1971→04年)

たとえば、モンクのソロ・ピアノが鳴っているような店内で、窓外を眺めていると、本書タイトル通りのこの「空の青み」が見える。
その時、その青みのなかへ飛んでゆきたい衝動が湧く。
それでもお客様がまだ来ない昼過ぎ、私はじっとカウンターに座っている。
ピアノはいつ知れず静かな誘惑をたたえながら、何らかの音列を作りながら鳴っている。
そうして音に耳を澄ましていると、そのなかを時間の矢が飛んでいって、私をその頃まで引き戻す。
後半、物語は山場を迎えると、私にも「空の青み」の誘惑が届いて、主人公もろとも、そこへ墜落しそうになる。
先回の『ジュールとリュース』同様、本書の背景は大戦闘の30年代だが、それが穏やかに絶望へと二人が落ち込むのに比べて、本作は非常激しく絶望へ墜落してゆく。
猛々しくも他愛ない二人の斗いは、死とエロスに怯えながら性愛そのものを生きてゆく、何とも痛ましい「カタストロフを前にして」二人を襲う「けいれん」に対して、しかもなおイロニーを感じ、主人公は「ホーム沿いにしばらく歩いてから行ってから、とある車室に入った。列車はまもなく出発した。」
あれ、ひとりで出発❓彼女は❓という結語である。

[PR]

by ihatobo | 2016-02-12 21:33

『生存教室』その3 - 『フーコー』(ジル・ドゥルーズ 河出書房新社 1987→99年)

 ところで前回の対談者、内田は、武術家(合気道)でもあるが、本来、学者(哲学)である。
 私の哲学理解は、ニーチェを読み解いたジル・ドゥルーズに依っている。ヴィトゲンシュタインと共に、誤解であるやも知れないが、ドゥルーズの著作は複数を詳しく読んだ。そこで、哲学ではないが美学系の著述家、ミシェル・フーコーを彼が読み込んだ『フーコー』を紹介したい。
 本書で内田が、光岡を発見したように、ドゥルーズもフーコーを発見したと私は思うからである。本書は当初の動機として、私の苦手な思索家であるフーコーを、ドゥルーズに解説してもらおうという魂胆であった。
 しかし、今回再読には至らず、本文中のキーワードを選び出し、私なりにドゥルーズの思考の地図を作ってみようと思う。
 例えば、『生存教室』に度々出て来る果し合いの場面は、仕掛ける相方と、それを受け、かわす方が双方で交替し、結果どちらが勝つというカタチの中で進行する。その果し合いの中で、体験知が斗いの現場に呼び出され、双方の身体は空洞化する。
 その場面で、交換されているのが「パッション」である。その場面の中で様々な時刻が用意され、それに対しても双方はその都度、各々の技術を組み合わせ斗う。

 前二回に渡って辿って来た、技術の伝承・伝達が、この『フーコー』でも述べられているのだ。
 そして私たちの店にひしめく多様な技術も、そのように伝わり、あるいは突然変異を繰り返しながら、私たちの記憶に蓄積されるのだ。
 日々の店の営みにも、役立つ本たちである。
[PR]

by ihatobo | 2016-02-08 10:17

『生存教室』その2 内田 樹、光岡 英念 (集英社新書 2016年)

 本書後半は、武術家は、その伝承・伝達に関して芸の伝承・伝達の書である風姿花伝に触れながら、私たちのコトバである日本語の成り立ちの事情について言及する。
 片や思想家の博識は、自らの思索から気、精、神の文字を通して心と情の区別を述べる。その言説の助けを借りて、光岡は精神と肉体のコトバを知る。
 それは普通、私たちが “ 精神は健全な肉体に宿る” と言って理解している文脈で、おふたりは、このフレーズへの批判と、逆に裏付けをも与えている。ともあれ、こうした私たちが普通に使っているコトバを扱うようになると、例の自己言及性のワナにハマってしまう。

 最終的には、日本古来のコトバの表わそうとしたイメージに、辿り着いて対論は終わる。フゥー。
 本書の題材になった、『生存教室』も読んでみようと思う。
[PR]

by ihatobo | 2016-02-04 18:01