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『生存教室』(内田 樹/光岡 英念 集英社新書 2016年)

 本書は、現在『少年ジャンプ』(松井 優征)で進行中の『生存教室』を題材にして、思想家の内田と武術家の光彦が対談するという企画本。

 議論は各々に深まってゆくが、身体、教育、生存といったテーマで対談というよりは対論。白熱している。思想家 内田は、武術家でもあり自ら道場を主宰している。
 要は、社会的存在としての人間の役割を、武術を以ってする社会学の支店と武術を以って人間存在の深奥を研究する光岡の対論である。

 次回に詳しく、紹介しておきたい。
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by ihatobo | 2016-01-30 17:51

『ニューヨークの詩人』(ガルシア・ロルカ 鼓 直 訳・解説 福武文庫 1990年)

 詩集を批評するのは大事なので、詩/詩論集である本書を選んだ。本文庫本も福武書店が版元で、この90年代初頭期に文芸誌『海燕』から出てきた新人たちの単刊本を、矢継ぎ早やに出していた。
 前々回のポール・ヴァレリー『テスト氏』も本文庫である。
 前回の鉄筆文庫もそうだが、文庫出版というのは、末永く質のある著作を世に残そう、という出版人の意図から出発している。
 岩波や新潮が、それを就踏しているが、このスタイルが一般化したあとは、旧作を文庫化して、“ 焼き直す ”という、そちらに軸足が移っている場合も現れてくる。

 本作は元来が詩集/詩論集で、それに訳注を付ける形でより充実した著作となっている。ガルシア・ロルカは、いわゆる “27年の世代” と呼ばれるスペインの詩人で、当時ヨーロッパを覆った死がもたらす息苦しさに反抗して、内向的ともいえる文学の運動を坦った社会的な活動にも参加した。
 本作品は、そのうっとおしさを逃れて、ニューヨークに渡ったガルシアが、一年余りを過ごしたニューヨーク・レポートである。
 もちろん詩集であり、自作を歴史に位置付ける詩論も伴っているので、それは単なる今風のニュース事象ではなく、美しい場面が端々に覗く。イエズス会(イクナシオ・デ・ロヨラ)ユダヤの男、踊る黒人、子ども達、空をかこむ青、光、ウォルト・ホイットマン、エドガー・アラン・ポウとコトバが続く。歌のようである。

 うたう歌は、単体では抽象であるコトバを連らねて、時間の経過共に、意味を造ってゆく形式だから、この詩集ものんびりと時間に沿って読んでゆくと、何とはいえずに意味が形成されてくる。
 お店の、お客様とのやり取りも同じで、その間に詩の時間が流れてゆく。お客様とのやり取りも、日を経て意味が浮かび上がるのである。
 「詩の時間」の中にいると気持ちが、上品になってくる。本書公刊の時期、どんなものであっても、私の興味を引くものが多い。次回もその時期のものを、いま物色中である。ご期待ください。
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by ihatobo | 2016-01-29 11:10

『ピエールとリュース』(ロマン・ロラン 鉄筆文庫1920→2015年)

 年末年始を含めて、今年は寒い。先日降った雪が凍り、いまだに解けない。その氷のような雪も昼中には解けるらしく、道路に黒いシミを作っている。春になってもこうだったらどうしよう、という如き恋愛小説が、本書の物語である。
 読み終わると、この小説のような男女の出会いと、その成熟があったらいいと、いま私は想う。今も実際にあるはずだ、と。

 物語は1910年代、第一次欧州大戦の最中、パリが舞台。『ジャン・クリストフ』の巨匠ロマン・ロランが書いたベタベタの恋愛小説である。ジャン・クリストフの個有名は知っていたが、学校で習ったのか、その後、文庫の未尾自社広で見たのか定かではない。
 そして更に、本書『ピエールとリュース』は単刊本で買った覚えがある。それは「積ン本」のまま、今は行方知らずなのだが。買った動機である “ビートニック” 小説のはずが、何か印象が異なる、という読後感しか残っていないのである。

 本書の書誌的な記述で判明したのは、58年の今井 正による映画制作の時期に、翻訳刊行された単刊本のようだ。
 他にも本書にまつわる思い出があるのだが、断片的で紹介文にはそぐわない。
 ともあれ、男女の「自然な」出会いと、その成熟が記されていて感動する。是非、文庫版でも、それは伝わるので手に取ってみて下さい。
 それにしても、寒い・・・
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by ihatobo | 2016-01-25 10:00

『テスト氏』(ポール・ヴォレリー 訳・解説 粟津則雄 福祉文庫 1990年)

 噛むことの男性について、前回述べたが、その男性性といえば、このムッシュウ・テストの右に出る者はいない、と私は考えている。その行状は良くも悪くも、世の男性に思い当たらないことはない、と私は思う。先回、松本清張で触れたが、男性の取る言動は不可欠至極である。
 ムッシュウは亭主とかご主人、英語のミスターである。彼は「あいまいなもの、不純なもの」を忌み嫌い、子を大切にし、物事を決めつける。「弱さ」「厳格」「思考」「自分」などの好んで文を造る。

 そんな彼でも愛するし、苦しむし、また怠屈もするのだ。住居は任意の場所に、日がなカフェにいて夢相している。などなど、テスト氏は私にしてみれば、愛おしく可愛らしい存在だが、その著者であるヴォレリーについて、訳者の粟津則雄(あわづ・のりお)が紹介しているので、それを書き写しておこう。

  税関検査官のパルステルミーを父として1871年に、南仏セートで生まれたポール・ヴォレリーは、13歳から詩を書き始め、大学に入るにあたって法律家を志す。
 傍ら、ユイスマン『逆しま』によって得られたマラルメとの出会い、エドガー・アラン・ポウとの出会いが得られ、彼は「言語の魔法の力の上に建てられた」詞の美を認識するようになる。彼は、その認識に基づいて「絶対に自己であること」を目指し、

 ――「思考」という岬に立ち尽して、事物の限界へ、神界の涯へ、目を見開き続ける人間・・・

 を時折に目指していることの詰まり、自分とは違う自分を作りあげたのが、本書主人公であるテスト亭主ということになる。
 まことに、男性とは不可解な生き物である。
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by ihatobo | 2016-01-22 10:23

『岸田劉生 盤珪』(松本清張 新潮 1980→83年)

 以前、松本清張を扱ったのは何時だったか、まず代表作を読もうと『点と線』を読み、その面白さに魅かれて『小倉日記』を読んだ。それが彼のデビュー作、と同時に芥川賞作であった。
 一般に彼は(社会派)推理作家として、認識されているが『小倉日記』は、 “文豪” 森鷗外の評伝である。評伝は、その作家の生い立ちから始まって著作品と、それに至る消息文インタビュー、批評文などを読み込んで、著者が対象作家を通じて自己表現をするという文学手法である。
 本作は、その手法を使い、松本自身が自己の評伝を書いたといっても、間違いではない。何故といって、すぐには応えられないが、岸田劉生(りゅうせい)を対象として、評伝で本書は書かれている。

 ただ、その対象作家が自分ではない、ということである。そして、何故自己を対象としていたのか、そして何故、岸田をその位置に設定したのかは、本書を読み進め、読者が判断するよりほかはない。
 本書成立の事情は、そのように多少 込み入っているが、文自体は極めて筒明である。解説で、美術評論の針生一郎が駆り出された事情も、このことに関係するだろう。

 彼は解説で書く。
 ――事実の因果的連鎖の中で、主人公が身動きできなくなるということ
 と、そして
 ――孤独と不遇のうちに、抵抗の脱出路を探る悲劇的な生

 を本書で松本は書いているが、読者である私は、それが松本自身に思い当たることであり、自著では書けない秘めごとを、岸田に託して、この本を書いたのだろう、と思った。彼は推理作家である。
 本書でも、そうした彼の好気と研究心が発揮されているのは、冒頭に据えられた『骨壺の風景』を読めば分かる。
 松本清張は汚濁にまみれた、類稀な近升人である。
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by ihatobo | 2016-01-15 11:23

『日本人は、どう住まうべきか?』(養老 猛×隅 研吾 新潮文庫 2012→16年)

 何の議論にしろ、それに水をかける論客がいるが、本書はその(論)客同士の対論といえばいいのか、真向からの対立ではあるのだが、結果同じ結論を相方の専門に対する真当な責任から導き出していて、愉快である。
 ひとつのテーマに関する対決で、これだけの緊張を強いる対論も珍しい。というのも、いきなりの行政に対する批判であっても、従割り行政のこの国にあっては、矛先は多方面に渡って尽きることを知らない。
 縦横無尽に刃を振り下している。従割り行政では、船ひとつ渡すにしても、河川を取り仕切る国交省と橋の構造上の建築基準法をクリアしようと専心する建築会社との間で、現実としての工事現場は右住左住せざるを得ない。
 いわゆる “だましだまし” が通じない行政の谷間が、できてしまう。 “だましだまし” は何も相庁に嘘を薦め、妥協を強いるというのでは決してなく、それを方法として確立して、合意の下に現場を現実の時間に戻してあげたらどうだろうという提案である。

 従割り行政では、相方共に扱いたくない谷間が出来てしまうから、相方共に結果として責任を回避できる現実が残されるのである。
 この事態は、その枠組みでは必然だが、そういって互いに責任を回避していたから現実のクライアント(工事を発注した主体)は、たまったものではない。その事態に対する議論がない状態に、本書は一貫して一石を投じる。

 あとがきで言う “だましだましの思考” は、どちらかといえば受動的だが、この二人の論客は、いわば受動のまま、果敢に現実に居座る覚悟で物事と世界について考え抜いている。
 それは頭っでかちではない肉体を、その現場 “異物” として投げ出すのである。明るい。しかし、お二人自身は暗澹(あんたん)たるものを抱えているのだろうけれど・・・

 ところで、本稿を作っている最中のある日、その、ご本人(隅 研吾)らしき男性が来店した。初め気づかなかったのだが、お帰りのお会計で「あれ?」と思った。しかし、確かめることもなく、「アレー・・・」という事だったが、一卵性の如く似ていた。者腰とかも。
 本書で知ったのだが、隅さんは、この下北沢を「都市」のモデルと考えているらしく『新・むら論TOKYO』で触れている。本書でも「OFFの街」とのコトバもあった。いやはや。
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by ihatobo | 2016-01-08 11:09

『マイ・ブルー・ヘブン/ダリル・シャーマン』(ミューザック MGCP1322)と『偶然の音楽/ポール・オースター』

本作は、既に18枚のアルバムを持っている彼女の、日本デビュー作。
全篇が彼女の弾語りだが、二曲でルーベイ・シュワルツが加わり、デュオ演奏になっている。
アルバム全体の印象は、30年代のニューヨークを彷彿とさせて、テディ・ウィルソン・スタイルのストライド・ピアノが良い雰囲気を出している。
7曲目で歌われる「私の青空」は、ご存知榎本健一の大ヒット曲。その他、コール・ポーターが活躍していた30年代のポップ・ソングが歌われる。
しかし、いまの時代、歴史も地理も混在しているからか、日本語が英語なまりで歌われると、この時代は何時なんだろうと思う。浮遊しているのだ。さらりと。
それでも彼女の声には芯があり、落ち着く。
こういアルバムに似合うのは、現在の「観念小説」家、ポール・オースターなんかがいいのではないだろうか?日本の訳詞も何種類かあるそうだし、そのうちのひとつのバージョンとして彼の小説の背景を作ってくれると思う。
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by ihatobo | 2016-01-01 16:47