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『二つの母国に生きて』(ドナルド・キーン 朝日文庫1986-2015年)

 人は各々に、美しいと感じた事柄を再び体験しようと願ったり、その人にとって価値を感じる事柄に向かって行為するものだが、キーンさんは何が喫期なのか時々に思うことを、その通りに成して来たように思える。
 この本を読むと、それがよく分かるのだが、彼のハイ・カルチャー " 趣味 " には敬服する。例えば、日本の物事に関する章では、能や歌舞伎を鑑賞するし、英国の文物には関しては、本来の研究者の本領発揮をする。
 それが、各々の国の人々にとっては何で外国人がそこまでするか、というほどの探究なのである。彼のハイ・カルチャー趣味、と書いたが、彼はその趣味が昂じて「いろいろ便利」という理由で、日本国籍を取得してしまった。

 私達が、うっすらと感じる能や狂言、文楽、歌舞伎に関する台屈さと、彼は無縁である。日本語修得について実利/貿易、教育、戦争/宗教に関する歴史も詳しく述べられており、政治/経済から美術/言語学にわたる総体的な知見も述べられている。肩書は比較文学/文化になるだろうが・・・

 彼を失えば、「貴重なものが、失われてしまうだろう」と私は、考える。
 大変に “ 立派 ” な本である。
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by ihatobo | 2015-10-30 18:23

『お金がなくても平気なフランス人 お金があっても不安な日本人』(吉村葉子 講談社文庫 03→07年)

 フランスに住んで久しい(20年)著者が、一般の市民に「今、欲しいものは?」と尋ねたところ、「愛」と答える方々が、ほとんどだという。
 日本人である著者が、そう聞かれたら向と答えられるかを考えたところ「やはり、お金」だろうと著者は述べる。私は、そう尋ねられれば、"静かで平和な生活"と応じるだろう。というのも、私の生活がお金と愛(憎)に溢れているからで、何とか静かな生活を送りたいと日頃、願っているからだ。

 しかし、冷静に考えれば"静かで平和な生活"のためには、お金も愛も必要なわけで私の場合、無理を承知で充分なお金と気にならない愛の両方が欲しいのだ、という事になる。
 贅沢な話ではないと思うが、本書には、その方策が随所に述べられている。いわゆる歳時記の体裁を彩りながら、あたかも私小説の如き物語を感じさせる文である。

 あとがきによると、90年初頭のバブル崩壊に伴い本書が文庫化され大ヒットした、とあるのだが、それは著者にとって嬉しいことだが、私の価値は本書の内容にある。タイトルのように「お金がなくても」私は平気だが、「お金が」儲かった著者は不安に陥りなかっただろうか。

   それは、平気な私のヒガミだろうか・・・   

 人の死について最後に書かれているのだが、他人の事はどうでもいいのが、死ぬのは他でもない私なのだから、と。
 しかし、そこまで考えることはない。役に立つ知見が、たくさんあるのだから。
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by ihatobo | 2015-10-26 10:00

『情事の終わり』(グレアム・グリーン 新潮文庫 1951年)その1

 山川の経歴から、この作家は読んでいたに違いないグレアム・グリーンの『情事の終わり』(1951年)を再読した。というのも、岡谷による経歴の紹介や法月の解説を読むと、名こそ出てないが、田中西二郎による訳文が山中の文体に乗り移っていて、それだけではなく短編小説の型式を使って、探偵小説に仕上げた手法が酷似しているからだ。

 もちろん本書は長編だから、似ているのも何も私の勝手な思い込みかも知れないが、医療、信仰に関する視点が、共通しているのは事実だ。
 その分野は生物学を介して、哲学とそれを裏付ける歴史に跨る問題系で、時にファンタジックな展開を導き出し、あるいは切れば血の出る生々しい描写も出てくる。(それは、山中の作品でも同じ)

 サスペンスとしても読めるので、次回、続きを書いておきたい。
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by ihatobo | 2015-10-21 18:29

Let's Get Lost (NOUS 3054・2・N)(チェット・ベイガー主演 ブルース・ウェーバー監督、1989年)

 チェット・ベイガーといえば、マイ・ファニー・ヴァレンタインだが、私にとってはブルース・ウェーバーの映画『レット・ゲット・ロスト(失せやがれ)』(1989年)である。
 もちろん、彼は、ここでも歌っている。この映画は、どちらかといえばドキュメンタリー ・ チェットが自分の歌と映像が流れる中を、ただオープン・カーに美女を従えて、ドッカリと座っている。それを伴走するブルースが投影している。
 画面は時折チェットに対するインタビューが挟まれるのだが、観終わった印象は彼の歌ではなく、流れる風景の中を疾している車とチェットである。自らが選んだ価値に浸っていて、苦しそうでもあるし、気持ち良さそうでもある。
 モノトーンの画面が熱い。それと静寂。「オール・モスト・ユー オール・モスト・ブルー」を囁くように歌い終わる。このサントラ盤に、しみじみと聞き入る、この頃である。
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by ihatobo | 2015-10-20 17:51

『親しい友人たち』(山川方夫 高崎俊夫 編 創元社推理文庫 2015年)

 本書は、文芸誌の編集者であった山川が、寄せられた作品、他誌に掲載された作品を自らの理解の為に、心理学的な理論によって読み解く。そういう枠組みで綴られた一種の文芸批評・評論本である。編集者は、色々な意味で哀しい定めに縛られており、ここに述べられた文からも、彼のじれったさ、苛立ち、達成感などが伝わってくる。
 主に使われている批判軸は、フロイト後の精神分析理論だが、それによって必然的に社会学、人類学、言語論も扱われており、それらの作品が発表時、どのように社会にメッセージしたかが想像できる。対象となった作品を読んでみたい気がするが、ここに述べられた事柄が少なくとも、そのメッセージ性を解説しているだろう。
 だが、この本の著者である山川自身に私は興味を持った。どんな作家を何を契機で選び、どういう方向で執筆依頼をしたのだろう。大方、同時代(60年代)の主な作家は網羅されているのだろう。本書に収められたより、余程、多数の文があるようだ。

 解説の法月倫太郎によると、山中は「非人間なものの側から、人間性の輪郭を浮かび上がらせる」ことに向かっていたというから、「生きる他者たちとの関係の中」(山川方夫)で生きつつ、社会(世間)を渡り歩いていて、自分の哀しさを紛らわしていたのではないのか、と私は思った。
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by ihatobo | 2015-10-19 11:25

『パワナ』(J・M・G・ルクレジオ 管野昭正・訳 集英社 1992→95年)

 本書は、内容の充実はともかく、訳者である管野の解説『楽園に入れなかった老人』が読ませる。
 彼は、ルクレジオのデビュー作『調書』(1963)を、雑誌掲載時に読んでいて、衝撃を受け、以来ルクレジオを気にかけて読んできた。当年85歳の仏文学者、評論、翻訳家である。彼は、ルクレジオより丁度10才年長である。彼が、ここで述べるようにルクレジオの『向う側への旅』の主人公ナジャ・ナジャは、 “ ただ、ふわふわと飛び回っているのではなく、なにから、どこからか遠ざかろうとしているのに違いない。 ”

 そのようにルクレジオは、本書でも、どこからか遠ざかろうかろうとするが、彼の旅はどうやらから空虚と無の中で終わっている。作品だけが残るのだ。ロート・レアモンやカフカ、チャールス・メルビスらの個有名を散りばめながら、小説は物理的な進展、事実を目指す。
 しかし、それは大戦後の取りも直さず我が国の文化的関心の所在をも、示唆しているかのようである。
 『パワナ』とは鯨(クジラ)のことだが、物語の時代設定は、その日本でいえば江戸後期であり、太平洋をめぐって香料や金とクジラを獲得するのが当時の価値であり、かのジョン万次郎、ペリー共々、この広い太平洋をハンターたちが往来していたという。そんなに昔のことではない。
 しかし、時代に石油が登場すると、さらに高い生産価値が生まれ、近代が文化、経済はもとより、国境の発生に伴う様々な弊害が、世の中を複雑にしたばかりか、地域の人々に苦悩をもたらした。そうした社会に生きる人々は、喜びと共に、より苛酷な苦しみを味わうことになる。
 事実の歴史も、この物語と伴走していて、トビラのカルフォルニア半島の地図と共に、二世紀余りの期間が説得力ある背景になっている。何しろ金華山沖捕鯨活動にも言い及んでいるのだから。
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by ihatobo | 2015-10-13 10:46

『BILLIE HOLIDAY / Stormy Weather』(2000年 IMC ポルトガル)

 レディデーを聴き始めたのは学生の頃、二十歳前だった。
 アルバート(アイラー)もジミ(ヘンドリクス)も三島(由紀夫)を、まだ生きていた頃のことだった。ラジオからは、ビートルズやカラヤン、サッテモが流れていた。
 池袋に部屋があったから、ジョン(コルトーン)が亡くなって(1967年)ジャズ喫茶を終店してしまった店主や、(浅川)マキさんや(三上)寛さんが、店や映画館、大学のキャンパスで歌っていた。
 はっぴいえんどの前身ともいえるエイプリル・フールや、岡林信康が歌いに来たこともある。どんな契機で(ビリー)レディデーを聴き始めたかは覚えていない。ジャズ喫茶にたむろしていた若者たちから、誰よりも彼女の名が伝えられたのだろう。
 芝居や映画、ポエトリー・リーディングス、詩人、哲学徒、鉄工職人、絵描き、美術家、そして漫画人、出版人、編集者印刷工、ライターと多士済々、雑多な人々が、そこジャズ喫茶には集まっていた。もちろん、ジャズ・ミュージシャンや現代音楽を学ぶ者、パフォーマー、画材屋、書店員、研究者、教員、レコード会社員、役所勤務・・・それらの人々が、唯一共有していたのがジャズである。

 しかも、そのジャズの代名詞(代表)としてのビリー・レディデー・ホリデーの個有名である。今となっては「珍しい」とは言えないビリーのレゴードが、そのジャズ・バーの全レコードという店でさえあった。
 その店で、あらゆるソース(レコード)を所有しており、私たちは、ちょっと入りずらい雰囲気であった。中からは音は聞こえるのに、入り口の鍵が閉められていたり。そこに足繋げく通っていたのが、阿部薫というアルト吹きであったのを、私が、この店を始めてから知った。
 本アルバムはレディデーの『レディデー』(CBS)と同時期のライブ放送を含む完全盤(?)でレパートリーは『レディデー』からのもの。

 秋の陽の降り注ぐ午後に、私は楽しんでいる。まるで、彼女が健在で夜のステージの為のダルいリハーサルの場に、いるかのようである。
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by ihatobo | 2015-10-09 18:18

『大津波のあと』(赤坂真理―『新潮』10月号 所収)その2


 さて、文は作者の深沢意識(無意識/記憶)が、多種化して浮かび上がって、連なったかのようである。
 主人公は、水の底(津波に吞まれた)にいるか、陽光溢れる地表にいるのか分からない。
 更に、そこに漂うエレキ・ギターのピックの片割れなのかも知れなく、しかも、そのギターを造った初代テレキャスター氏が今そのギターに乗り移っているのか、そして、日本中に度々出てくる英語、テレ(遠く)キャスター(発する者)の単なる洒落、二重意味なのか、どんどん事の成り行きは旋回(スパイラル)する。
 作中に直接的な解決は、もちろんない。まことに速いのである。
 速いから旋回するのか、片翼を失ったから旋回するのかも、不明である。
 たとえば、
 ――高い竹馬に乗った人、大道芸人。舞台、テキ屋、(・・・)風船、醤油。焦げる香ばしい匂い、ケバブ売り、道化たち、鳥たち、獣たち。のぼりにスローガンにシュプレヒコール。

 次のページは、“ 家だ ” に始まり、今や夜より黒く見える海に、家が浮いて~
 そして、それも覆され、やがて
 ――もとびとこぞりて(・・・)主は来ませり(・・・)
 という讃美歌になり、
 ――(・・・)念仏、読経、密教の題目、どこかのチャント(歌)、祈りの文句、詠唱。聖書からコーランまで。すぐ後に
――幾多のラジオは、まるで昆虫の群れ。他に、「金属的」「名前」「大きなハーモニー」「千渉波」「僕が割れて」「他者の体験」
 そして、「僕は、ふねだ。新しい海へ漕ぎ出す。」で、文は終わる。(つづかない)
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by ihatobo | 2015-10-08 10:33

「新潮 10月号 『津波のあと』 赤坂真理」その1 

 読後、一言「圧倒的な速さ」が浮かんだ。物語も場面(展開)も速い。場面は万草鏡を、ひねるようにパッと変わる。
 そんなに、クルックルッと変わる場面は方々に散在しているようだが、どうも舞台は定められていて、ひとつの場所である。
 そして、物語全体は「光」に充ちている。その光の届く範囲に、その場所(住人)を包む町があるようだ。浜辺の町である。(以下、次回に詳しく。)
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by ihatobo | 2015-10-05 11:14