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『ジャズは死んだのか?』(相倉久人 音楽之友社 1977年)


 この本には、随所に「ボクは死んだ」というフレーズが出てくる。
 ジャズが20年頃からミシシッピの河口、ニューオリンズから始まり、その他からすぐに飛び出したルイ・アームストロング(シカゴ)やシドニー・ベシェ(パリ)を筆頭に、ジャズは世界の都市へ伝わった。伝わった、というよりも、各々の都市の経済/文化の具合で、各々に発生したという方が実情に合っている。
 よく言われるように、北米の黒人たちが、ブルースやゴスペルと同じようにジャズを産み出して~、というジャズ史は、とても説明的で説得もされるが、各々の実情は何も黒人を中心に動いた訳ではない。人種によってジャズだったり、そうではなかったりするだけで、音楽に限っては人種、国籍、年齢、性別は、その意味のよし悪しとは係りがない。

 そうしたジャズの取り巻きのバイアスを、一貫してフラットに戻していたのが、本書の著者である。
 公刊が77年、ずっと後年になって同様にジャズ史を彼は書いたが、その姿勢は一貫していた。この時も本ブログで紹介し、また別の機会にコルトレーンをめぐる討談を私は聞きに行こうと掛けたが、この夏に彼は亡くなってしまった。
 もっともっと、話を聞きたかった。
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by ihatobo | 2015-09-28 10:44

『音楽』(三島由紀夫)最終回

 三島の作品は、以上のように「書かれた書物は、自分の身を離れ(・・・・・・)どれだけ烈しい夜、どれだけ絶望的な時間がこれらの書物に費やされたか、もしその記憶が累積されていたら、気が狂うにちがいない。」
 と彼にとっては最後の『三島由紀夫展』の案内文にあるように、それらの自らの著作をも反故にして、その瞬間だけを生きる。
―何もないところに来てしまった 三島はそう書き記してこの世界から消えてしまう。日付けは1969年11月25日11時23分であった・・・
 三島の作品は以上のように「左を斬り返す刀で右を斬ったのだ」
『わが友ヒットラー』( 69年1月刊行より G・ルシュールの引用)と、引用されるように、”中道”を旨として、私的な”自分の人生”を誠実に生きつつ、作品をその範囲で抹殺してしまった。
 なんともやるせない作家である。
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by ihatobo | 2015-09-21 23:43

『音楽』(三島由紀夫)④

 今年も金木犀の季節がやって来た。我が家の近辺には、少なくとも7~8本、この木を植えた家があり、最寄駅へ向かう道は、そこでポッ、暫く行くとまたホワッと、あの強い香りが漂う。
 いつもと違う道を駅にむかっても、そこでも家々の香りが漂う。
 ということは我が家よりも遠方の家々の前を通る人々も、各々この秋の到来を涼々しく迎えていることになる。
 さて、三島の実家は邸宅であったから、この木が植えられていたに違いない。彼の内の「暗い闇」はこの秋の香気をどう味わっていただろうか?
 1956年に刊行された『金閣寺』は前年寺の僧に放火され焼失した事件を題材に執筆されたものだが、その主人公は、ある美しい学生に声をかけようと「暁闇の道」で待ち伏せするが挫折する。
 暁闇とは、開けてきた暗がりという時刻のことで、ここにも彼の心の闇が投影されてコトバが選ばれている。
 自分自身から抜け出して自ら選んだ仮面をつけ、別の生の一端を間接的にでも生きてみたかったと『三島由紀夫』(祥伝社・ジェニフェール・ル・シュール 2012年)の著書は書く。
 彼は仏語のジャーナリストで、映画『憂国』についてそう述べている。
 『仮面の告白』以来、本書『音楽』に至るまで三島は<死>の誘惑と格闘して来たのだ。(つづく)
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by ihatobo | 2015-09-20 13:24

『音楽』(三島由紀夫)その2

 男よ、立ち上がれ、男は力持ち、強く、天を目指して飛べ!

 さて、この文は、ある規則に穂いられています。その規則とは?
 答えは、45音列。そのココロは、た・ち・つ・て・と。

 さて、というところで、晩年は日本語回帰を突き止めた三島に本作は、実に近代を支配する欧州語に対する、異和を骨子とした理論書と読むこともできる。
 日本語は、発音されたコトバのリズムに重点が置かれ、流れ去るごとに意味が形成する。そこで、本来的に伝達や表現が成立される。それは何も日本語に限ったことではないが、まず、そのポイントで私たちはコトバに接している。漢字の音・訓を始め、カタカナによる音の文字化も、その側から理解するのか順当てであろう。

 本作も、タイトルにあるように。では、音(楽)はどちら側にあるのかを、三島は考えたかったのだろう。作品の構成は、その欧州発祥の精神分析学を学んだ医者の手記という体裁を採って、患者の愁訴が、現状の分析治療(対話)では改善されず、むしろ、その事実を以って精神分析を批判する、というものになっている。
 私には、精神分析治療の概要の知識があり、そのことに馴染めずにいたが、本書によって理解できた、ともいえる。精神分析による診断は、明確で説得力もあるが、精神は更に複雑で、「深い暗闇」を持っている。
 大柳ではなく、日本語のやり取りによって患者は、快愉して物語は終わる。綜合的なのだ。独語はダーザインス・アナサリーゼというようである。

 次回は、12年発刊時に紹介した仏語ジャーナリストによる『三島由紀夫』(禅伝社)における三島の自死を追った評伝、批判を紹介しよう。
 本書が、より一層、貴重なものである事が、読者に了解されると思う。
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by ihatobo | 2015-09-18 10:27

『調書』(ル・クレジオ)と『音楽』(三島由紀夫)その1

 本書には、冒頭に作者の注が添えられており、本文の前に、その概要と読者が、それを読み進むに当たっての心構えを既に明かしてしまっている。その理由を、コナン・ドイルに依っていることも。だから短気な者は、そのイメージを受けたことを記銘して、読了したことにできる。しかも、それこそを著者は望んでいる節がある。

 つまり、「一種の強制作用を本質的な因子とする “ 行動的 ” 小説に特有の瞬間」だと彼は記しているからだ。すぐ続いて彼は、「書くこと、伝達することは、相手が誰であれ、事柄が何であれ、信じ込ませることできるという事に他なりません」と続けている。
 彼は、この小説を「パズル小説」と名付けようとさえ記している。さて、そのような小説を私が今、再読するのに何の意味があるのかというと、自然とは別の人の営為は、その成果の内側で様々な意味作用があるものの、自然そのものにはならない。自然にとっては無意味な物体であることを、筆者は知らしめようと願っていることが、私に伝わったという事である。

 こうした冒頭に注を付けた小説は、三島由紀夫にもあり、ほぼ同時期に書かれた『音楽』も、ある精神科医が診察した女性患者の問わず語りを、その医者が書き記す、という形式を使って成立した小説で、こちらも同時代性や人の心の本質への欲求が綴られている。詳しくは次回に機会があれば、紹介しようと思う。
 何しろ音楽が聴けなくなる症状に、悩む女性の語る物語であるから、熟読を要するのだ。
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by ihatobo | 2015-09-15 10:04

『婦人公論』(9/8号 長塚京三、小林聡美×井上陽水×川上未映子)

 そのあと、もったいないので、長塚と井上陽水を読んだ。
 長塚さんの「自然に」思っていたように、身体が動き、文字が書けるようになった、というのが、同世代として、実に私にも共通していてホッとした。
 そして、「もう少しあそこを」と芝居の最中感じても、それも自分なのだ、との発言にも勇気づけられた。
 陽水についても同じで、自己の創作へ向かう「孤独」は欲しいが、その他には「口出し」しないという態度も、私と共通していた。私は何かカタチを創造しているわけではないけれど。
 さて、そこで想い出すのが『Break of Day』 Karin krog&Steve Kuhnである。録音は13年10月NYC.
 大切なものだけを、ムダを殺ぎ落として作品にする。日本語の言い回しとしての「枯れた」味わいを味わえるのがこのアルバム。丁度二年前のバリッとした新作です。実はその時ミューザックの福井さんが、「今度コレだすんだけど」と言ってサンプルを置いていったアルバムである。
 このアルバムのような「枯れた」ものは日本などでは通り一辺に扱われ注目されない。私自身も村﨑×上野や長塚さん、陽水のように「シッポをつかまれるようなこと」はしないことにしよう。
 本アルバムは、そのようにして初めて店でかけられるのだ。隠して隠して、密やかに。
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by ihatobo | 2015-09-13 17:13

『婦人公論』(9/8号 中央公論新社)

 当年67歳の上野千鶴子と医科大を卒業した村崎蓉子(ふよこ・80歳)の対談があるので読んだ。
 どの道、誌名が婦人公論というからには、婦人の真実を公の場で話しましょう、という枠組みだから、そこを外さずに読んだが、やはり女性に都合よい結論が秘めかされて終わっている、と男性たる私は感じた。が、そこは両人とも科学者であるから、真実を折り曲げている訳ではない。
 しかし、男性読者を奮い立たせるような灰(かい)めかしはないのだろうか。本誌を買い求めた、我が家の「大蔵大臣」は、ここに述べられている熟語で、私の遺族年金で好気心を持って楽しい老後生活を実現すべく、私に対してアレコレと画策を廻じらせる発言を日々繰り返している。
 それは元々、私達が作った熟語だろうが、それを得たシステム化した昨今、それでは「オレの立つ頼」がないだろう、と思う男性は私だけではないと考える。

 他に、川上未映子、長塚京三、ジェン・スーの対談、中村玉緒といった個有名が並んでいる。なかでも、千葉 望の鶴見俊介への追悼文が良かった。出揃った追悼文の中では、爽やかで鶴見さんに対する哀悼の気持ちが素直に表明されていた。
男子足るもの希望を持って自活出来なければ、立つ瀬がない。
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by ihatobo | 2015-09-11 19:05

『処方箋受付ける』(矢部 嵩 早稲田文学 秋号)

 あたかも “地獄の蓋” を開けなければ、そこから、ようやく出口を与えられた鬼や魑魅魍魎(ちみもうりょう)が吹き出して来るように、どうも、この「処方箋受付ける」は、その蓋のような主人公が入り口ホールを入ると、すぐに受付があるのだが処方箋を持っているはずの彼は、案内されるままに奥へ進むと、その道は「数泊あるかも知れなかった」という風に、処方箋を受付けに提出して当の薬を受け取り、代金を払う、という普通の手順が、なかなか進まない。
 ここは、過負荷を思わせる。そして、その数キロの道を辿って先を進むうちに、「仮眠室」に至る。
 そこで、彼らは休息したのかどうかも不明のまま「連続した認識」を失くしてしまう。

 この章のタイトルは、「運搬線軌道」である。何を運んでゆくのか、何が運ばれてくるのか。会話も随所に、はさまれるのだが、会話する者が主人公と誰なのか、全く違う人々のモノなのかも不明で、要領を得ない。
 そのままに物語は進み、最終章は「後の町」である。
 今回は、結末は控えておこう。大変興味深い結末である。(つづく… かも知れない)
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by ihatobo | 2015-09-08 09:53

『ぼくだけの音楽』(黒田恭一)

 多少の違和感があるものの、その理由はハッキリしていて、私がクラシックを対象にした文に、親しんでこなかったことに由来している。
こういう風に、例えばジャズを対象とすればいいのか、と豪を開かれた思いである。大方のジャズの取り巻きは、より直接に踏み込もうとするあまり、本書の如き冷静な観察がない。
 このことは、何もジャズに限らず、クラシックより他の音楽を対象に選んだ場合も同じで、取り巻きたちは主観や実感を尊重することに腐心した。ある物は、ライブコンサートに足繁なく通い、あるいはレコーディングされた楽曲や演奏が、いかに忠実にそれを再現しているかをポイントに、再生装置のクオリティを知る題にした。
 その中から、いつそのコト演奏者に参入するものやライブやコンサートをオーカナイズする者が現れた。しかし、そうした努力は当事者が思うほどの成果を得ることはなかった。そこには根性や精神性が入り込んだ、そこらの努力が無駄であることは、決して考えられないけど、そこには演奏する側も含めて音楽の直接はなかった。

 のんびり、フツーに音楽に寄り添っていれば、それでいいのだ。静かに。今は亡き、植草甚一のように。
 本書は、タフレコ、ユニオンと当店だけの限定販売です。¥2, 500
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by ihatobo | 2015-09-05 09:56

『PARIS/ザーズ』その2

 セミや鳥、犬、猫の音たちから遮断された室内は、それらに囲まれているにもかかわらず、耳の奥行を変えると静かなものである。それは壁や窓によって外界の音群、ノイズ部分が背景に引っこみ、耳は特徴のあるシンプルな音に向かうからだ。
 そのコトは春の長雨の時も書いたが、今年の異常は梅雨を想わせる。
 それと同様に、ツイートの情報ネットワークに晒されている人々は、自分の欲しい情報を自己決定せねばならない。
 雨粒程の量で、情報がひしめいているからだ。
 焦点を絞れば、その系にも五万と時空を超えた情報が溢れている。
 脇を閉めて、自らのペースを守るしかない。
 どちらにしても、時間内に処理できる量は決まっているのだから、ウスイ情報を遮断した方が、エネルギーも(電気代)も頭(情報処理器官=脳)も休まるというものだ。
 たとえばザーズの昨年末の作品『パリ』はそんな作り方をしている。
 ウスク聞いていれば、スイング・ジャズ、イエイエ、シャンソンと代わるがわる背景(バックのサウンド)が移ってゆくが、歌姫ザーズはその背景に入り込み”ジャズ・ヴォーカリスト”になったり、オーソドクスなシャンソン歌手になったり、サウンドと一緒になってスキャットしたり、とても複雑な曲作りになっている。
 しかし、ザーズの声はその中で特徴そのものとして自由自在に声を張り上げている。そこでは張り上げている、といっても大変静かなのだ。
 アズナブールとのデュオで、際立って分かり易い。あのアズナブールが声を張り上げてザーズの若い声に敗けていないのだ。
 そしてこのことは何も歌には限らない。私たちの店はCDを大音量で流しているのだが、テーブルで楽しく会話をしているカップルでも何人かのグループであったとしても、彼らは彼らの静寂のなかで相手の話はよく聴こえている。
 自分の自由意志で自分の環境を造れば、そのことが、私たちを自由にしてくれるのだ。
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by ihatobo | 2015-09-02 09:35