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ヴィレッジ・ヴァンガード(ライブホール)

 私の頃はサド(ジョーンズ)メル(ルイス)のマンデーナイト・ジャズ・オーケストラが始まった頃で、直にソリッド・ステートから実況盤が」出た。好評だったのだろう、またその年のうちに『セントラル・パーク・サウス』が出た。
 今度はスタジオ録音でダイナミックなビッグ・バンド・サウンドがロック寄りのサウンドで鳴っていた。
 そのタイトルが、ヴィレッジ・ヴァンガードがあった公園の南というのを最近まで知らなかった。ヴァンガードがアバン・ギャルドの英語発音なのも、その時知った。「芸術上の前衛」つなげると「前衛芸術村」
 このハコはレストランではないので食事は出さない。飲み物だけで、聴衆はジャズを聴きにやってくる。
 そのハコが今年80周年を迎えたという。当店の二倍強。まだまだ頑張らねば。「イカねばの娘」(筒井康隆)・・・なんちゃって。
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by ihatobo | 2015-08-30 11:17

『森 鷗外』その1(石川 淳 岩波文庫1978)

 本書は、下北沢に居を構えていた石川 淳の当世文学の師であり王であった、森 鷗外文学の解説評伝である。本書は一読すれば分かるが、モダニスト石川の語り口の巧みである。
 すなわち「抽斉」以前の鷗外の生活と事業とか、今われわれの前にあるわけだが、その全貌は一眼で見抜くのには、あまりにも広汎なので任意に課題を採集して行くことになるだろう。石川の この突き放した語りには、感情というものがない。あるとすれば、無色透明な抒情を読者に与える。それは、すなわち「王」たる鷗外の読者にも共感する抒情であるだろう。
 このことは、三部構成の本書の「詞歌小説」と第三部の「翻訳概観」に至って、 “構造” 的に記されている。それは、あるディテール(課題)を追ううちにソロのディテールを導いて行く、という語りになっている、という意味である。

 石川は翻訳が鷗外においては「批判の一形式として現前」していると書く。私は本書に導かれて、アラン・ポゥやホフマンを、のぞき見たのである。文を読むことは「清潔な交渉」であるべきことも、本書から教わった。
 さて、次回は付録のように巻末に収められた「鷗外についての対語」に進もう。
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by ihatobo | 2015-08-27 17:56

エンドレス・ワルツ』(稲葉真弓 1992年/2014年 河出書房新社)

第31回女流文学賞受賞作。
初版から23年を経た、色々な意味で有名といえば有名なこの小説を一気に読了した。
小説のモデルとなっている鈴木いづみの著書を初めて読んだのは、15歳の時。メルヘンチックな装丁の『いつだってティータイム』だった。以来、鈴木いづみは私のお気に入りの作家のひとりとなり、書店や古書市などで、著作が目に留まれば迷わず買って読んだ。15歳といえば1978年、有名作家とはいえないまでも、新刊が出れば街の本屋で普通に買えた時代だった。
 もちろん、中学生の私に、鈴木いづみの私生活の噂など入って来る訳もなく、著作を読み進めながら、その破天荒な生活ぶりや不思議な夫婦関係、交友関係などを想像するのがせいぜいだった。それでも15歳の私には、いづみワールドが大変興味深かったのだろう。たびたび登場する「浅川マキに電話した」という一節から、浅川マキのレコードをせっせと買うようになり、エミリー・ブロンテやスコット・フィッツジェラルドなどを読むようになったのも、鈴木いづみ経由なのである。
 私は鈴木いづみの初期の文体が好きなのだ。押しつけがましくなく、乾いていて、やるせないが、妙に熱い小説世界だったように記憶している。吉行淳之介だって才筆である、とほめていた位だ。
 『エンドレス・ワルツ』は天才アルト吹きの阿部薫と鈴木いづみをモデルにした小説で、極端な描かれ方に読む方はくらくらしてしまうが、現実の二人はもっと極端で吐き気を催すほどの生活ぶりだったのではないかと想像する。貧しくて、子供を残して、無名といえば無名のうちに死んでいったのだから。
 男(夫)は女(妻)を愛してるという。女(妻)はその独善的で的外れな愛に疲れ切って、あなたが憎いという。男(夫)はそれでいい、という、「愛と憎しみは常に同量なのだから」という理由で。
愛することに失敗した、無垢な男の物語とも、才能をつぶされた愚かな女の物語とも読みたいが、やはり時代を疾駆した類稀な二人に、渇望を抱きながら読めばいいのだと思う。
 時代が変わり、その昔、鈴木いづみと一緒に写真集まで出した男が、ふっくらとした面立ちに小ざっぱりとした服装をして雑誌に映り、「浅草の花やしきには変な女の子と来るのがよい」などと書いた文章を読むと、汚物にまみれて死んだカオルとストッキングで首を吊ったイズミの最後もいいものだと思えてしまうのだ。
 

       投稿:木花なおこ
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by ihatobo | 2015-08-25 18:22

『ラカンの精神分析』(新宮一成 講談礼現代新書 1995年)

 マドデウスの歌詞 「そこにあるのは/恐怖だけだ」を読んで、想い出すのはジャック・ラカンの言葉だ。“転移” を扱った「セミネール第8回」で彼は独自の用語を使って、この「恐怖」を言い表している。 “転移” とは過去の体験と、その記憶が分析者との会話の中で立ち現れ、目の前の分析者こそが「私」とその体験を共にした相手だと決めつける場合を言う。

 しかし、分析者にとってみれば、その覚えはなく患者の方も、そんなはずはないということを実は知っている、という不思議な出来事をいう。そして、その「対話」自体が、相方の実在に深く関わっているというのっぴきならない状態を、ラカンは「発見」する。
 ラカンによると「対話」している分析者は、その相手の話を導き出すために “非存” で、なければならない。それを、その「場」が「必要」なのだという。まるで禅文答のような言い回しだが、それで患者は治療される。というよりも、自ら分析者として未来を生きるようになる。(もちろん、そうならずに単に治療し、社会復帰を果たしてゆく者が大部分である)

 ちなみにユング派の河合集雄は、その “非存” の場を「箱庭」とし、分析家としての「対話」をせずに、相方で「箱庭」を囲み、時間を切ってセッションを繰り返す。その結果、治療が持たされる。
 「禅文答」も「箱庭」も日本人には馴染みがあるが、それで治るのは不思議である。「雲をつかむような」話である。それを一般化したのが、ラカンだったと、あるいは言えるのかも知れない。他に彼の娘、シビル・ラカンによるラカンの評伝が晶文社から出版されている。また、本書のようにブログ開始より前のオススメ本に適宣扱って行こうを考えている。
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by ihatobo | 2015-08-24 10:37

『陽光と静寂』 マドレデウス

 曖昧な雨雲を透いて、はるか上空にうろこ雲が見える。上空は秋なのだ。それを見て、久し振りにアドレデウス第4作『陽光と静寂』を聴いた。
 本ブログで紹介した時も、歌詞の訳を見たはずだが、今回見てみると真に時宣に合った内容が歌われているのを知り、驚いた。

     ―― 戦いの残した光栄の惨めなことよ(・・・)
                地上には、すでに平和の影すらない
                         そこにあるのは、恐怖だけだ ――

 この歌は、94年のアドレデウス第4作である本アルバム(タイトルの言語は平和の塊の意)に収められているが、彼らは一貫して愛と平和を希求する歌を作っているから、ジョンとヨーコを引き合いに出すまでもなく、歌というものの本質を、ずっと生きている。
 アドレデウスのコトバは、そうした歌の本質を歌のように出来ており、その民俗音楽はファドと呼ばれ、人が運命に翻弄されながらも、そこから脱することが出来ない深い哀しみにも関わらず、力強く生きる希望を、彼らは歌う。
 本アルバムには英語詞も含まれ、そういった晋偏性に立脚して、世界へ打って出ようという姿勢が伺える。実際、録音から三ヶ月後にはブルーノート・レーベルを通じて、欧米発売になったという。
 彼らはデビュー以前、リスボンのウス教会に集まっては、歌っていた。元々は、ペデロ・マガリャンエスとロドリゴ・ムーノスが1986年に結成したバンドで、翌年、ウス教会の名前をもらい、ウス教会のマドレ(母)をバンド名にしている。
 本作を引っ張り出した昨日、さっそく問い合わせがあり「コレ、買います」という。身成り正しい年配の男性であった。
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by ihatobo | 2015-08-21 10:10

『生きて帰ってきた男』その2と『かくも長き不在』(マルグリット・デュラス)

 前回、憲二氏と私の父が同年代だと記したが、正確には私の父は21年(大正10年)生まれで、憲二氏より4才年上である。従って憲二さんは、まだ90を超えていない。
 しかし、にしても強いことに変わりはない。
 さて、今回も積ン読本を何冊か読んだけれど、途中で放棄したのが『玉手箱』小手鞠るいである。時を隔てて元の場所へ戻ると、年寄になっていたという当たり前といえば当たり前の設定に、安易な連想で読んだが、女性の出産(体外受精、代理母)を扱っている為に、感情移入ができなかったばかりか、男性をなんと考えているのか、と、ひっかかり、諸々の事情はあるにせよ、やり切れなくなった。
 今回は、加えて戦死したと伝えられた夫を待つという『かくも長き不在』を再読した。
 著者のマルグリット・デュラスは私が長く付き合っていた作家で、本書も長く不在であった夫が妻の元へ帰還する物語。
 しかし、戻って来た男は、別れる以前とは変わっていた。夫婦でいた時間をそっくり忘れてしまっていた。記憶喪失の男をめぐって物語は展開するが、やはり、やり切れない。
 本書を今回の筑摩フェアで注文したのだが、在庫が切れているらしく入荷しなかった。
 デュラスの『ヒロシマわが愛』は作家の事情もあって再版されてないが、この物語も私は好きだ。
 どこかで見つけたらぜひ読んでみて下さい。
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by ihatobo | 2015-08-19 10:24

『生きて帰ってきた男』(小熊英二 岩波書店)その1

 本書は、ラベリヤ抑留の体験を持つ著者の父親、小熊憲二氏にインタビューを重ねた談話と、同時期に残されたメディア、書籍、小規模某団の会報、投書などを博覧して裏付けている歴史書である。そこには、第二次世界大戦、前、中、後に渡る一般庶民の暮らし、政府によって引き起こされた海外派兵、それに伴う国内の工業、農業、商業流通の “実相” が浮き彫りにされている。
 私の亡き父も憲二氏と同世代で、特に晩年には戦争中、後の生活を語るようになっていた。二人に共通しているのは、赴任先の食料、衛生環境が不安定の為に敗戦後、帰国して間もなく結核を発病しており、憲二氏は片肺を摘出、父は左腎臓を摘出した事である。
 それでも、二人は共に90歳を越えて元気であった(私の父は数えて92歳で亡くなった)。本文中にあるように、共に経済・会計畑を歴任したが、憲二氏は肺活量が普通より4割方少ないために、無理をしない労働時間に自重したからだろう。
 しかし、私から考えれば二人は、共に強いのは確かである。次回は、より詳しく戦後の暮らしぶりを紹介したい。私がリアルタイムで生きた時代であるからだ。

 ところで、又吉の『火花』が順当に賞を獲得した。特に際立った事件が起こるわけでもない物語だが、動機は何であれ、書店で手に取るとキレイな本だ、と思う人が多いのではないだろうか。タイトルもグットネーミングである。
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by ihatobo | 2015-08-14 09:45

『 iPS 細胞』(黒木登志夫、中公新書)と『素粒子と物理法則』(ちくま書房 06年)

 科学者による論文(エッセー)が読んでわかりやすいのは当たり前としても、それを組み立てるためのコトバは、何を意味するのか、さっぱり分からないのも、また当然なのだ。読者は科学者の書くもの、エッセーには関心があるが、その領域の学者ではない。
 本書は中山伸弥そのヒトと彼の研究に興味があり、その意味も分かっている著者による中山のヒトと研究についての評論、解説書である。
 帯に「 iPS 細胞を使った新しい医療が実現しつつあります。」とあり、現在の先端医療の意義と意味が述べられています。著者は、この領域の専門家であり、中山の先輩にあたる研究者で、大変わかりやすく緒論が素人にも読めるように述べられている。興味のある方は、読んでみることをオススメする。

 その点で数学の最先端と、その歴史述べられているのが『素粒子と物理法則』(R・P・ファインマン S・ワインバーグ)で、この本も大変読みやすいが、それは数式をもちいた読みやすさで、数式自体はチンプンカンプン、困難そのものである。
 しかし、読後には自分が大数学者になったような、清々しい充実感が味わえる。高いレベルの抽象なのだが、その美しさが味わえるのだ。

 どちらも、オススメの科学本である。
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by ihatobo | 2015-08-06 09:12