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筑摩書房・文庫 新書フェア

 いよいよ、筑摩書房・文庫 新書フェアが始まった。全14タイトル、16冊。注文したもののうち、2タイトルが在庫切れだったものの、この店のキャパでは充分である。というもの、この店の文に関する核ともいえる『零度のエクリチュール』(ロラン・バルト・著 森本和夫・訳)がライン・アップしているから。
 本書については、先にお知らせしていたが、バルトではもう1タイトル『表徴の帝国』を売ります。この本が面白いのは「高校一年生」がヒットした当時のブロマイド!を示して “記号” で、舟木一夫とその日本人たる “心性” を分析しているからだろう。

 もちろん人(顔)に限らず、木材で造られる日本の家宅に関しても、 “数寄屋造り” を典型とする切妻の屋根、京都の街路を特徴づける “碁盤の目” を “記号” として捉え、それらを彼は分析してゆく。これらの他、『ことばの食卓』 は作家・武田泰淳の妻、ゆり子さんの武田をめぐるエッセー。
 開店する以前から、尊敬していた堀田善衛さんから『方丈記私記』、学生の頃に滝口修造に教えてもらった『デュシャンは語る』など。

 先に本ブログで紹介し、今回のフェアのキッカケとなった『本屋になりたい』(宇田智子)など盛りだくさん。
 次回から断続的に、各タイトルと私のなれそめなどを含めて紹介してゆきます。
 乞、ご期待!
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by ihatobo | 2015-07-31 10:10

『女歌』(中島みゆき 新潮社 1986年)

 時代を振り返る季節が、またやって来たようで、1986年の中島みゆき「女歌」を読んだ。この本も積読んで、何時、入手したか覚えていない。巻末の自社広告を見ると、どうやら第三エッセー集のようである。
 ちょうど中頃、「フール・オン・ザ・ヒル」(片岡義男・訳)に目が止まったので、その章を読み始める。彼女のエッセーの構成は、身近雑事をつらつらと述べながら、これではまるで、あの歌詞のまんまじゃないのという形式で、結びに歌詞が掲載されている。
 歌詞が終わりまでゆくと、前半フリのオチを数行、書くという。「起承転結」定石通りである。しかし、この歌詞の引用をやると、著作物の二次使用料が当然かかり、商業ベースでない場合は大体そのものではなく、それと分かる様な書き方をするのがフツーであるが、小規模出版では、その工夫も意味はない。しかし、少部数だからこそ可能なことがあり、それで資金を支出するか個性を際立たせるか、どっちもどっちである。

 ともあれ、この時期に こういう社会意識を彼女が持っていたことが、本書から伺える。冒頭の6行に、その時期のビートルズと時代、そこに遅れてやって来た中島が何と思ったか、端的に綴られている。
 「いたよ、こーゆー女」という訳である。その女が出会った男・M なのか女のか、その彼らの眺める社会が、この章から伺える。その彼らを、そっと寄るよーについて回っていた、もう一人のM ―― 街には、ビートルズが流れていた。
 しかし、この時点でビートルズは、いない。とっくに解散してしまった。そんな話を中島が、作り上げたのかも知れない。
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by ihatobo | 2015-07-29 09:44

『パイプのけむり』(團 伊玖磨 小学館)

 タバコ/喫煙をめぐるトーク番組を、たまたま見た。番組は丁度ハイライト(!)を迎えていて、ほんの1~2分でCMタイムに切り替わった。

 寛容の側らしい長嶋一茂が、「僕は吸いませんでしたけど、父は吸っていました」と大声を出した。この大声で私がスイッチする前に、(喫煙に)寛容、非寛容派が互いに持論を、開陳していたのだろうことが伺えた。“現役の時も?” と誰かが言い、 “そう、・・・ショーポ・・・って言うんですか?吸ってました。”
 “そりゃ、ショート・ホープって言うんだ” 松本(ダウンタウン)が言って、それがそのコーナーのオチだったようである。どうも松本は仲裁に入りスポーツ選手は吸わないというような発言をしたようである。で、残った印象は、端から吸わない人たちは喫煙に対して寛大であり、禁煙を経験した人は他人の禁煙に対してナンクセをつける傾向にあるナ、という事だった。
 私は喫煙派だが、他人に対して寛大である。つまり、禁煙を思ったことがない。どちらでも、いいのである。他人の嗜好に対して、文句はない。
 ジャズもシガレットも共に好きだが、無ければある所へ移ってゆけばいいだけで、その場所を革命しようとは思はない。
 ところで、愛煙家の團 伊玖磨の代表的エッセー『パイプのけむり』も煙のように漂い密度を変えながら延々と続き、移りゆく季節や風物を扱っている。何にしても、私は漂ってゆくことが信条である。
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by ihatobo | 2015-07-27 10:14

『さりげなく思いやりが伝わる 常識として知っておきたい美しい日本語 ― 大和言葉』(上野 誠 幻冬舎)

 このところ天候不順が続くが、やっと梅雨が明けたと思ったが、考えてみると平年より二週間ほど早い。これでは季節が掴めない。明けた苦の夏が、一日中、雨模様だったり。日本の心性は、詫び寂び―風流と季節に対して大変敏感である。俳句・川柳を詠み、打ち水を打ち、季節感に応じて工夫を疑らす。風鈴や金魚売とか。夏ならば、そうした人々の工夫が自分たちのベースを造り上げてきた。

 上野 誠『さりげなく思いやりが伝わる大和言葉 常識として知っておきたい美しい日本語 ― 大和言葉』(幻冬舎)によれば、そうした工夫(言語活動、日常の所作)が世界を広げ、生活の質を自分たちに造ったものにして来た、という。
しかし、現状は “語源のたどれず、意味もよく分からないブラック・ボックスみたいなもの(コトバ)が、あふれている” という。 “(大和)言葉を知ることで、世界が広がり、生活の質が変わっていく” という。
 それでも、ブラック・ボックスを怖れず(恐れず)、たくさん使い、たくさん消えてゆく中で残ってゆくもの(コトバ)があり、残ったものが定着して行く。私たちのコトバは、そうやって残ってきたものであり、外来語(漢字、外国語)によって、人とコミュニケーションを取っているのだ。

 教育・伝承が、そうやって成立している。私たちのコトバは大変、込み入っていて繊細であり、これからも、そうであろうと私は思った。

 次回は積読であった『 ips 細胞』(黒木登志夫)を紹介します。
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by ihatobo | 2015-07-23 17:53

『火花』(その2)と『蒼ざめた馬』(アガサ・クリスティー)

 ちょっとムズカシイ本は棚に上げて、休憩しようと考えてアガサ・クリスティーの『蒼ざめた馬』を読もうとしたが、端から休憩と位置付けると読んでも感想が形成されない。ただ一言、`あー、面白かった’ では紹介にはならない。
 で、この際だからミステリーという物語の形式を作った、この著者の執筆に際する構造を概略しておこう。と考えたが、こちらも休憩の位置付けて読んだ『火花』も `あー、面白かった’ という状態で、どういう風に紹介しようかと考えているうちに賞を取ってしまった。
 本作は、特に際立った事件が起こるわけでもない物語だが、書店で手に取るキッカケは何でもいいのだろう。しかし、良質の物語は、本作のようなこというのであって、賞を取らなければ、その いわゆる「良質の」に埋もれてしまったことを思うと、賞も悪いことではない、ということになる。
 埋もれた「良質」を掘り起こすのは大変で、私ごときがいくら叫んでも人々の目前からは連れ去ってしまったであろう。ま、そのうち発掘されるのは確かだが、著者も生活をしている以上、余り時間が掛かっても困るだろう。

 それにしても、タイトルもタイミングが良いし、才能ある芸人・タレントだから余計なお世話だと言われそうだが・・・スミマセン。
 「野趣」があるのだ。本作にも、著者にも。強い。
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by ihatobo | 2015-07-21 10:08

『エクリチュールの零度』 (ロラン・バルト ちくま文芸文庫 1953→1999年)

 彼の著者では、『神話作用』を詳しく読んだが、もちろん素人購読である。しかし、続く『表微の帝国』は扱われているのが日本という具体であり当然論は抽象を逃れないが、ほとんど、どの章も思い当たる論考であり、私が、この本を読むまでは意識していなかった心性を、見事、言語化して見せてくれて大変ありがたかった。

 若い時季に『いきの構造』(九鬼周造)や『風士』(和辻哲郎)を親の本棚から引き出して読んだものの、コトバとしては自分を言い当てるものではなかった。
 その頃に著者であるロラン・バルトが来日し、本書の訳者である宗 左近が恐らく、どこかで彼について発言をし、それを私は、伝え聞いたのであろう。強く興味を持ったのであった。
 その時期の数々の著作の元になったのが、ロランの第一作 『エクリチュールの零度』である。こちらは正真正銘、難問な用語を造り上げての理論書であるから、その用語を、うっすらとでも把握していないと、チンプンカンプンである。それでも解説書を頼りに読み進めていると段々と、その抽象としての立論が掴めてくる。どの段階からでも、その抽象/具体に入り込めるから、気長に読んでみることをオススメする。

 さて七月中に、これから当店の核になっているムズカシ本を随時、紹介・販売して行きます。第一弾は宇田智子の『本屋になりたい』をラインアップしている、ちくま書房のちくまプリマ―新書から。小川洋子、河合早雄などの他、同社から20種を選んでフェアをやります。ご期待ください。
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by ihatobo | 2015-07-17 18:54

『両性具有の美』(白州正子)

 優先席に母娘らしき二人が座っている。娘の方は、おそらく50代後半だろう。初めは母親を座らせて、自分は、その前に立っていた。母は隣の席に座れという風に、シートを指して娘を促す。
 電車が駅に停まると、母を除く、全てのシートが空いた。そこで娘は母の隣に座るが、よく見ると大荷物を背負っていて、腰かける程度である。電車が次の駅に近づき、減速を始めた。この駅では、新しい乗客は、やって来なかった。
 四つのシートの端に、母と娘の二人だけになった。娘は、ようやく体を据って母に何か小声で話しかける。しかし、母は薄く目を閉じただけで、視線は動かさない。背筋を伸ばし、対向の窓外に目を送っている。私は次で降りるために、ドア脇に進んだ。

 男女の境目が、どんなに深いものであるかも知っていた、白州正子。(酒井順子)次回は、その彼女のエッセー集『両性具有の美』(新潮文庫)に探りを入れてみよう。対面に座っていた母と娘が、互いにそうであったかも知れないでは、ないか。

 本日は梅雨の晴れ間、暑いのは苦しいが御茶ノ水でディスクユニオンが在庫一掃一万枚セールをやるそうである。しかも、値段の半額!暑気払いに出かけてみようか・・・
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by ihatobo | 2015-07-14 10:11

『寺田寅彦 随筆集』(第一巻)その2

 本書の、もう一章「花と病室」(1920年初出)を読んだ。さすが、本書の読後感も一言、「偉い」。
 とにかく、自分が勉強もせず普通に生活を送っている時に、不思議に感じた事柄、ここでは見舞いに訪れた友人が置いて行った鉢植えを、ひねもす眺めていて考えた早々が綴られている。しかし、「偉い」になると、草々ではない。
 三週間余りの入院中に、自分の周囲にも(自分の)内部にも色々の出来事が起こった。色々の書物を読んで、色々のことを考えた・・・。しかし、それについては別に何事も書き残しておくまい、と思う。

 今こうして、ただ病室を賑わしてくれた花の事だけを書いてみると、入院中の自分の生活のあらゆるものが、これで尽くされたような気がする。人が見たらなんでもない貧しい記録も、自分にとっては、あらゆる忘れがたい貴重な経験の総目次になるように思われる。
 これは本書の結びだが、三週間の体験が自分にとっては、「あらゆる忘れがたい貴重な経験の総目次になる」と書き結べるのは、やはり大変なことで色々の事にイチイチ真摯に対応していなければ、こう短くは言えない。やはり「偉い」のである。
 私も、真摯を旨として生活しようと考えた。
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by ihatobo | 2015-07-11 09:48

『寺田虎彦 随筆集』(第一巻 岩波文庫 1947年 全5巻)

 最近、池内 了の編纂で、全5巻が同じ岩波文庫から一冊にダイジェストされて発行された。
 私たちの世代では寺田虎彦といえば、偉いエッセイストという認識だったから、ご多聞にもれず私も、その第一巻を買った。中学の頃だったから、発行から10年余りが過ぎている。手許の文庫本の奥付けを見ると87年の61刷である。前行に63年改訂新版とあるから、その改版を契期に東京オリンピックの前年、親か教師が、その名を口にしたのだろう。
 中学生にとってみれば、親でも教師でも年上が、その名を口にすれば「偉い」のである。そして、それから何年かが過ぎ、ようやく自分が手にしたのが、この本である(そして、それから~と延々と続く)。で、池内のダイジェスト版が出て、また読み返している訳である。

 さて、その第6番目「科学と文脈」に寄せられた『科学者と芸術家』を読んだ。私も、この本との付き合いの長さもさることながら本章の内容も、その全文を紹介したい程に、このところのブログの流れにピタリと重なっている。
 芸術と科学が、その成果だけを見れば相反する領域のように人々は考えるが、どちらも法則と真実を求める点では、真摯であり、その扱領域の範囲が違うだけであるという報告というか「方則」には仰天である。科学というものの、本来の目的が知識の系統化、あるいは思考の節約にあるとすれば(・・・)大きな政策をまとめ、渾然たる系統を立てるのが科学というものであろうとするのは、幼い頃から不思議に感じ、「そういう科学ってないの」と他人には言えずに来た、私自身の想いである。
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by ihatobo | 2015-07-07 19:28

『本屋さんになりたい――この島の本を売る』(宇田 智子)

 読んだ読んだ、あァ、くたびれた。何故って、文字面の10倍くらいの本当に知りたい情報が、詰まっているから。著者と共に、古本屋一軒、造ってるぐらいくたびれた。読んだ人のひとり一人が、この本を読んだことで、店一軒造ったのと同じぐらいの時間を、体験することになるだろう。しかし、それは、この著者というよりも、この本がそうさせるのだ。
 その本書のタイトルの、ひとつ目の意味が分かることになる。他人に働きかけず、その意味で罪のない生き方を選んだ筆者だが、特に意識した訳ではないが、たまたま「本が好き」になったがために、本に関わって自らの生計を立てたいと思うようになる。私達の店でも、この本を売りたいので版元に電話してみよう。

 それから、「同じ印刷された紙」なのに一方は本、片方は紙幣というところで彼女の前に難問が立ち現われ「自由で、少し孤独でもある」本屋に、のめり込んでゆく。「頭だけでも、足だけでも出来ないからこそ」楽しくなってしまう。(自分が)「やるべき仕事が見えた」ような気になって、彼女は張り切っている。
 2002年に本書の舞台<古本屋ウララ>が始まる。彼女はその舞台を壊してしまうことまで想定するのだが、もはや時既に遅く、彼女は「本屋さんに」なってしまったのでした。メデタシ、メデタシ。(終)
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by ihatobo | 2015-07-06 11:43