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Shadow Im The Night BOB DYLAN (sony music 88875057962 2015年)

 前評判の良かったボブ・ディランの新譜である。ジョアンについても、そろそろ一言書いておかねば、と思い“ギターと声”を前回紹介したが、私が思い出していたのは“イエスタデー”(ビートルズ 1967年)の歌詞であった。

       ――彼女は(ボクのもとを去って)行ってしまった
                   きっとボクがヘマをやったのだろう――

 誰しも思い当たる文言である。しかし、そこはレノン=マッカートニ “昨日を信じよう” とリフレインする。
 そのリフレインも聞いているうちに、いじけた逃げ口上が反転し、その昨日だけを思ってこれからを立て直そう、という風に聞こえてくる。明るい。基本的にビートルズは明るい。
 さて、明るい希望が持てるかと言えば “ギターと声” も “夜の影” も暗い。しかし、希望もないかと言えば、どちらのアルバムにも希望が感じられる。異国のコトバだから、という事もあるだろうが語学能力を越えて、これからは明るく私には記憶されるだろう。
 私たちの日常語では、分からなくてもいいところの意味を、受け取ってしまうキライがある。というところで、現役の大御所たちがロマン(物語)性へ回帰しているのは、意味のあることだ、と私は考えている。では、どういう意味があるのだと言われれば、即答できないのだが・・・
 それにしても、夜の影とは意味シンである。
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by ihatobo | 2015-05-29 18:52

『joao voz e violao unive rsal beazl-Verve 5467132(2000年)』

 店は階上にあり、店内は明るかったが奥へ進むと、天井や壁の隅に暗影が浮かび上がった。レコードが鳴っており、街路の騒音を遮断している。
 店員がカウンターから出てきて、壁を回り込んだ窓際のテーブルを案内してくれた。席に座ると店内は思ったより広く、入り口を背にした壁際に老人がひとり座っている。
 テーブルを案内してくれたのは若い娘さんで、この店には似つかわしくないように思えた。袖の短い紺の制服をきちんと着ており、清潔な身なりをしていた。
 頼んだコーヒーが運ばれてきた。店員はペコリと頭を下げて戻っていった。一口コーヒーをすすって老人を見遣ったが、最近の彼は私がこの店を訪れてから一度たりとも動かなかった。背筋を伸ばして両目をつむっている。盲目なのだろうか。コーヒーのカップに手を添えたまま動いた気配がないのだ。

 世間の付き合いを避けて、この店で過ごすのが彼の余生の日課なのだろう。人生の役目を終えた静かさが、彼の周りに立ち込めている。
 ジョアンは、そんな風にお昼前のひと時を、過ごしているのではないだろうか?
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by ihatobo | 2015-05-27 08:57

ラピス・トリオと『アルケミスト』(パウロ・コエーリョ 地湧社 1984→翻訳1994年→角川文庫 1997年)

 先夜高円寺ショー・ボートで、ラピス・トリオを楽しんだ。
 初めてのハコで、迷うかと考え、開演前に場所を確かめようと北口をうろついた。
 しかし、見つからない。駅から徒歩4分とあるのに。20分以上歩いただろうか…グーグルでプリント・アウトしてもらった地図の住所は杉並区高円寺北―で切れている…
 さあ、ともう一度初心に返って駅舎を背にしてみようと戻り始めると、私の名が呼ばれた。おー、当の本人が、路上に出されたテーブルに坐り、メンバーの他の二人とヤキトリを囲んでいるではないか!
 「行けば分る」の一念で、この日は出掛けて来たのだ。
 というのも、学生の頃に駅の反対側のビル2Fにアズ・スン・アズというライブスポットがあり、そこで半年程私はバイトしていたのだ。
 更に、既に10年来のドイツ人“美女”の友人が9年前にそのショー・ボートでのステージに上がった、という事も聞いていたので、タカをくくっていたのだ。
 しかし、夜の街をうろつくのはこの齢になっても緊張する。
 気分はノンビリさすらっているのだが。

 さて、その演奏だが、聞いてる私はノンビリさすらっているのだが、演奏は張り詰めていた。
 あの突掛るサウンドで何でノンビリいられるのかは、このトリオを聴けば解る筈である。
 ターン・オンという言い回わしがあるが、まさにこのサウンドは客に対して反抗している。客を乗せる、という言い方があるが、その真逆をやり続けていた。
 一曲中に、テンポよく乗って来たナと感じると、その突端その乗りを一気に壊すのだ。(性格がワルイ。あるいはヒネクレている。それとも照れ…)
 ということでイジメラレて楽しんだ一夜であった。
 断っておくが、私はマゾではない。(笑)

 というところで、今回はパウロ・コエーリョの「アルケミスト」(地湧社 1984→翻訳1994年→角川文庫 1997年)
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by ihatobo | 2015-05-24 02:48

PARIS/ZAZと『9割の老眼は、自分で治せる』(日比野佐和子 KADOKAWA)

 古い映画から聞えてくるラグタイム・スタイルのオートマチックのピアノのように、遠くで音が連らなっている。
 酒場には似つかわしくない昼下りに、何の仕掛けもなく突然それは鳴り始める。音の連らなりの方へ視界を拡げると、低いステージに置かれたアップライトを、男が弾いている。
 埃っぽいハットを被った男が弾いているのだ。何かを想い出すように、時折指は止まり、思い出したようにまた音が連らなってゆく。
 ザーズのPARIS(仏ワーナー825646 223374 2014年)は、そんな雰囲気を造っている。
 もっとも出てくる単語は、喫茶店やタクシー、駅や愛。と、文学だが。(『フランス文学と愛』野崎 歓 講談社現代新書を参照して下さい)
 そして、選ばれた曲が戦後シャンソンの名曲が連らなる。アズナブール「ケ・セラ・セラ」「自由」を求める「民衆」が合唱した「オー・シャンゼリゼ」(エリゼの部屋)ミシェル・ルグランの「アイ・ラブ・パリス」「パリの午后」(この曲は、クインシー・ジョーンズがアレンジャーとして参集している)
 とにかく、愛とパリの単語がテンコ盛りである。
 後半に進むに従ってジャズになってゆくのだが、しかし、それらの単語からクサミが背景へ退き、ジャズが前面に浮び上がって、透明感のあるビート・ミュージックに仕上がっている。
 ザーズのような才能がやらないと、〝フランスのジャズ〟や〝フランスのロック〟になってしまう。
 最近発売されているジャズアルバムの中にも、こんな風な佇まいのアルバムがチラホラ目立ってきた。次回は、それを紹介しよう。

 あと、アンチエイジングの技術書、『老眼は自分で治せる』も紹介したい。
 本日3日目だが、本書のエクササイズを実践して、2日目「オッ」という驚きがあったことを中間報告しておこう。オタノシミに。
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by ihatobo | 2015-05-20 21:34

『エレンディラ』(ガルシア=マルケス ちくま文庫1983年)

 先回のパウロ・コエーリョと同じスペイン語圏の同世代の作家、ガルシア・マルケスに触れないでは、このところの流れは、大事なものを川底に置き忘れてしまう。
 日本では、『百年の孤独』が良く読まれているのだが、ここでは映画を観ている『エレンディラ』について連想できることを書いておきたい。
 エレンディラは、祖母を風呂で洗っているが、それは、もう6時間も時計を調整しながらの作業である。
 この部屋には、無数の時計があるのだ。
 つまり、6時間ごとに、隣の時計の同じ形に追いついてしまうが……進んでしまうのかも知れないが、ふたつの針が造る角度は90の倍数である。困る。
 という、「ノーベル章作家」の14歳の「無垢なエレンディラと無情な祖母の信じ難い悲惨の物語」(裏表紙)である。
 ―とにかく、止まらないのである。永遠に時は宇宙までも巻き込んで、どこまでもグルグルめぐる。(供笑)
 映画では最後にその風呂場の四方の壁が向こう側に倒れ、暗い宇宙・・・・・・がむき出される。
 ―と、ここまで書いてきて、何故かシャミッソーの『影をなくした男』を想い出したが、何をその頃連想したのかは、いま想いだせない。
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by ihatobo | 2015-05-17 09:55

『ベロニカは死ぬことにした』(パウロ・コエーリョ 著 江口研一 訳 98→01年翻訳 角川文庫 03年)

 何か作業に熱中していると、目の端に暗がかりが見える。何だろうと気がつくのだが、やりかけていた作業に戻ると、それは消えて、作業を始める以前の部屋の明るさに戻ってしまう。
 あれは何だったろうと、同じ部屋だ作業していた同僚に尋ねても、何か領域を得ない返答が返ってきて、その部屋に密んでいた影の正体は、以前、明かされていない。そうした、その作業の当事者にしか分かりようのない不思議を扱うのは、モダーン・エージの小説の書き手の常套で、本書もそうした作者の記述で構成されている。
 前回紹介したように、パウロ・コエーリョはブラジルの作家で、先回の『アルケミスト』(1988→98年翻訳)で世界に認められた。1947年生まれの私は、私より二歳年上で二十歳前後に各地でもて映やされたグルジュフラの神秘思想や、白摩術・黒摩術(E・カスタネダ・メキシコ)の空気を吸って自己探索の端緒を掴んでいる。私もその後、それらの著作を読み、“あぁ、そういことだったのか” と後年合卓した。
 本作の主人公ベロニカも、魔女や心に病のある他人に興味を持ち、自ら病院へ出かけ、そこでいゴールという医師に会い、自分の関心や夢、不安、妄想、嘘などを彼を相手に語り始める。最終的に、周囲のルールや常識から抑え込まれていた自分自身の体験を話す。

 客観化(診察小説家)されているので、性差も越えて彼女にとっての極私的な体験と、その結果を医師らに報告する。
 すると、誰に語ることもなく告白された事実が雲散して 主人公は一際を忘れて、明るく生きてゆこう、というところで、物語は終わる。

 本書は原作として2005年に映画が製作・公開され、翌年、日本でも一般に向けて上映会が開かれた。ほんの些細な手がかりでも、追ってゆけば一本の映画になる程の物語になる、という本書は、その証明になった。
 パウロは少し年配のエリス・レジーナの詩曲作りも手伝ったという。彼女の娘マリヤ・ヒタも、その二人から、歌の滋養を受け継いだことであろう。
 マリアもジャーナリスト、戯曲、詩人でもあるからである。第一作『マリア・ヒタ』(03年製作 b.c.050466 799920)北米、ヨーロッパ、日本でもレコ発コンサートをツアーした。
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by ihatobo | 2015-05-15 12:30

ある晩、ハリー・コニックJR.『ロフティーズ・ローチ・スフレ』とともに

 予定調和の腹の探り合いの会話を、それと知って、楽しむカップルが最近増えてきた。

 「さみしかったの」と相手の女は親密にいう。店内はセロニアスを受け継ぐハリー・コニックJR.『ロフティーズ・ローチ・スフレ』(1990年 ソニー)が、少ない音を連ねている。
「オレが嫉妬する」と含み笑う。男がそう言い放つ。
 女に定められたオ相手がいるのだろう、相手についての愚痴をこぼして、今夜のオ相手の気を魅こう、という、作戦だろう。
 ほどなく二時間余りの会話を楽しんだあと、「電車の時間が…」と女が言い、連れ立って退店された。
 時折起こった大笑は、恥しい告白の際だったのだろう。「オレ、コンドーム、アマゾンで買ったもん、24ダース。」という爆発を残して消えた。
 そのコトバの際は4曲目「MR.SPILL」だったが…辞書を牽くと「もらす」「栓」「転落」とあった。

 アルベール(カミュ)じゃないんだから。
 メールの「会話」のよーであった。せっかく新幹線で来た女と会話してんだから。ったく。もったいない~





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by ihatobo | 2015-05-15 00:30 | ある日

『ネコはどうしてわがままか』その2(日高 敏隆 2001→新潮文庫08年)

 しかし、走り去ってゆく猫でも猫は猫なので、それもまた美しいのだ。動物行動学(エソロジー)で転位行動という代償すること、つまり本人が対象に対して何かを望み、それが叶えられない場合に当の本人が望みをズラして気を紛らわそうと試みる行為(動)に向かうことがある。
 皆が集まって楽しくやっている時に、自分もその輪に入って楽しくやりたいのだが、カッコつけてオレはここにコーヒーを楽しみに来たんだといって、ひとり端の方でタバコなんかを吹かしているのも、紛らわそうとする代償行為だが、それをエソロージーでは転位行動という。

 イキナリで申し訳ないが、輪からハズレてひとり拗ねる、「特に女の子は、よく、この手を使う」男・女を問わず、思い当たる方は多い。苦である。拗ねているのが、男の子の方が多いのも、よく似ている。
 ただ、人間では(・・・)もう少し手の込んだことをする。本当にすねては いないのに、すねてみせる、すねたふりをする、というのが、それだ。ちょっと、ちょっと・・・見抜かれている・・・。トホホ、恥ずかしい。
 装画・挿画は大野八生。キキさんは、おやすみ。
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by ihatobo | 2015-05-13 09:44

『「進化論」を書き換える』(池田清彦)と『ネコはどうしてわがままか』(日高 敏隆)

 『ネコをめぐる世界』(日高 敏隆)の回でも述べたが、猫自体は衣食住は全て事足りている。だから、彼らを取り巻くすべての事象の変化に応じて彼らは彼らなりに取り込み、あるいは時に環境に対して主張を展開して、子孫を増やしてきた。
 彼らは一貫してわがままだが、オス猫もメス猫も自らの子孫が含まれる種全体と、その歴史に対して、誠実である。それと同様に生物進化の全体と、その歴史に対して、生物(植物、昆虫、バクテリアなどの微生物)も自らに誠実に生きている。

 今西錦司は“ヒトは立つべくして立った”のコトバを残したが、“長い歴史において、(その)プロセスで大きな形態変化”が生じるのは長い時間が、それに比べれば、ほんのわずかの時間に疑縮されて起こるから、それは再び “卵が先か、ニワトリが先か”という矛盾律にハマり込む。本書あとがきで著者は、そう述べる。
 今西のコトバ通り、真実は確実にあり、だがしかし、それを記述するには、進化と同じぐらいの時間を要する、ということだ。

 本来、科学は真実を明らかにするものだが、のんびりやらないと、また元のモクアミに拡散してしまう。
 寄って来るから油断して相手をしていても、サッサと走り去ってゆく猫と同じ、マイペースが丁度いい。
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by ihatobo | 2015-05-08 21:05

『ファンタジーと言葉』(ル=グウィン)と『背景音楽』(サティ)

 前回の知事選の時も紹介した本書だが、前回、反原発・再生可能エネルギー開発がヒットして当選したのだったが、今回は、その主張が奥に引っ込み、共生・共存できる経済・エネルギー・教育へ、とシフトが変更された。もっともな主張である。
 保守層の一枚岩が散々に分裂している現状において、シンプルな主張よりも多様化した志向性を盛って、票を集めた方が得策であるのは自明である。ともあれ、それで大差をつけての当選だから、とりあえずはホッとした。
 主都主義や国防一点張りよりは多様各人の主張が、もみ合う枠組が機能したということだから。
 本書タイトルのそのポイントで「斗う」姿勢は変わらないものの、前回本ブログで伝えたように「仕事する」責任者であることが、今回説明されることになり、前記のようにホッとした次第である。
 しかし、分かり易い例として翻訳を考えると、それは当然のその国、地域で使われてきたコトバを翻訳者が、生れ育った地域のコトバに訳してゆく訳だから、コトバの上では、その作業は誰のものでもない。つまり、翻訳者の生れ育った時代もその訳文に反映される訳である。
 どれがいいか、とは単純に判定できない。
 一番の早や道は、そのコトバを使う地域に生れ育ってから作業を始めることだが、それでは順番が逆になってしまう。
 いまは使われていないコトバ「古文」を読み書きする場合もその問題と思っている。
 つまり、いま使われていないコトバで理念や施策方針を提出する場合も「分り易」ければいい、というものでもないのである。
 問題の問題はケンジ先生の文を読む時や、百年の定番を読む際にもいえるのである。




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by ihatobo | 2015-05-05 22:24