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『日の果て』(梅崎春生 雲井書店 1950年)

 「反戦」をいう小説はたくさんあるが、その斗いの場では、ひとひとりが死ぬわけだから、それは大変な事だよ、と、そこに焦点を当てる作家は、数多い。
 そうした小説はいまに始まったことではなく、洋の東西を問わず、戦(武)士が登場すれば、殺すことの本質を問わずには済まされない。
 梅崎春生『日の果て』(雲井書店 1950年)もそんな小説である。

 本作は第二次世界大戦終結間際、沖縄が、世界秩序に「復帰」したあとの鹿児島が舞台である。その戦況を見極めた国軍の、指揮系統の混乱を描いている。もはや敗戦は事実上結果されている。その状況で兵士は自分らしく生き続けることに唯一の価値を見い出だそうとする。
 そうした中で主人公は「心がすがすがしく洗はれる」思いをし「先刻の気持の反動と判ってゐながらも、私はこの感傷に身をひたしてゐた。」
 そして、終に核爆弾が広島に投下される。
「大きなビルディングが、すっかり跡かたもないさうだ」
 長崎の地名がないことや、跡かたもないという描写には引っ掛かるが、それだけの「犠牲をはらって、日本と言ふ國が一體何をなしとげたのだろう。」
 「もしこれが徒労であるならば、私は誰にむかって怒りの叫びをあげたら良いのか!」
 そうして戦斗機の弾丸に額を撃ち抜かれた見張兵を埋葬する。

 本作は作品ではあるものの、大変ダイレクトに主張を作ることに成功している。だが、いまになって読むと、フィクションであることが如実であることも確かである。当時の読者は、どう受け止めたであろうか。1950年の発刊である。
 不謹慎ながら、旧字、旧仮名が異言語のようで、同時代作品として読めなかったそれは理由であろうが、虚しく、絶望し、希望も私に芽生えさせた作品であったことは確かである。
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by ihatobo | 2015-04-28 23:43 | 本の紹介

『国家・宗教・日本人』(井上ひさし vs 司馬遼太郎 講談社 1995年)

 白州次郎『プリンシプルのない日本』(新潮文庫 1995→01年)を紹介しようと思ったのだが、その原稿を失くしてしまった。丁度、各自治体の首長選挙の期日が迫っていたので、大人の責任を全うしませんか、という狙いがあったのだが…
 本ブログは、そうした世事からは一歩距離を措き、文庫/新書を中心とした新刊本の紹介を旨としているから、ま、棚に上げてもいいのだが、50年以上以前に上梓された本書は、大人(常識)の責任を、全頁に渡って記しているために、ここに紹介しようと考えていた。
 ところが、ない。
 もしかして、「やはり、情況に発言するのは慎みましょう」という暗い無意識が、“神隠し”を演出したのやも知れぬ…が。
 内容としては、同様の主旨をめぐっての両者の対談を収録しているから本書でいいのだが、白州は大戦を挟んで内閣の当事者であり、最近ようやく話題に登ってきた“憲法義論”を当時から主張していたので、次回再読してエンピツを頼りに再現しておきたい。
 タイトルは『プリンシプルのない日本』
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by ihatobo | 2015-04-28 15:52 | 本の紹介

『abさんご』(文芸春秋 2012年)

 やはり、積んで据いた本作を、やっとの想いで読んだ。やっとの想い…
 読みづらい。ホント、文が突掛かって来るのだ。しかし、この作品を嫌いにはならないだろう。分る、のだ。
 文を書いている際に、空覚えの漢字を使いたくないものだから、とりあえず片仮名でも平仮名でも書いておく。
 あるいは書いておきたいことが押し寄せて来ていて、筆圧が強くなるような際に、またも取りあえず仮構するのを承知で記号を書きつけておく。読み返した時に思い当る符号を印しておく。
 そんなことがある。
 本書は、そんなこと、が、そのまま何とか文になっている。
 という趣きである。何らかの秩序か、あるいはルールがあるらしいが、いちいちチェックするのももどかしく行を追う。
 確かに、もの凄い早さでページを繰っている自分が、そこにいる。
 そう、確か婦人公論だったけれど作者に対する取材記事があり、それを読んで私は本書に興味を持ったのだった。
 他に新聞の書評を読んだのだったが、その字面で、本書内容は、私に知れた。
 まづ普通の体裁である「毬」を読んだ。
 富岡多恵子が切り開いた構成ではある。
 その引き継ぎであり、またその進化形が本書である。
次に「abさんご」を読んだ
いやはや。である。
これまでに私が読んだり書いてきた文が一挙にパァーである。(つづく)




 

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by ihatobo | 2015-04-16 23:14 | 本の紹介

『左うでの夢』 坂本龍一(MIDI MOCL 5031/32 1981-2015)

 私にとっては初めての単行本企画の製作が始まった頃に、コトバが必要だったので同時代の文芸書を複数読んだ。
 科学物では『カオス/ジェイムス・グリック』 『複雑系/プリゴジーヌ』 『千のプラトー/ドゥルーズ、ガタリ』 『スロー・ラーナー/トマス・ピンチョン』 『見えない都市/イタロ・カルビーノ』 ピンジョンの大著『重力の虹』(白場社)は大著だったが、コトバを探しての通読である。
 カルビーノは文芸物だが、“記号論”のロラン・バルトの参考文献だったから、やはり目を通した。しかし現在、思い返せば、この時期の“科学物”は文芸としての本質をつくいていて物語的なストーリーがある。

 この時期に、彼はスタジオを借りっぱなしにし、朝 6 時に入り、その日の終わるまで演奏/作曲をしていた。当初「音楽図鑑」とタイトルされて発表されていたが、今回リマスターリングを経て『左うでの夢』として発売になった。
 本作は1981年リリース、彼の三枚目のリーダー作で今回、ディスク2 にインストールメンタル・ミックス・マスター使用のディスクが加わり、二枚組CDになった。
 レコーディング終了後、私は雑談の中で、ふたつのポイントを後にアドバイスした。もちろんコトバとイメージのアイディアであったが、今思い返せば、それは結果として彼に採用されたことになりそうである。

 さて、またもその時期にポール・オスターは、小説家になるべく準備を積んでいた。これもタイトルに魅かれて通読したのが『偶然の音楽』(1990年)。
 しかし、またも読んでみると“オチ”、“ネタ”が列挙されていて「味も蓋もない」。外野手のように、バットにボールが弾かれた瞬間に到達に直線で走り落下点でグラフを構えているよーなものである。つまらない。(野手は、それが仕事の達成であるわけだが。笑)
 96年の映画『スモーク』(オ―スター原作の同名タイトルを脚色)は見終わってさわやか(ソフト)なり快感があったのだが、小説の方(新潮文庫)は未読である。
 これもまた、読んでみようと思う。
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by ihatobo | 2015-04-15 10:42

『ジャズの巨人ジャズの100年』(小学館)

 どの人にも内に秘めたナゾがあり、それをどう扱うかで、その人の性格(歴史)が形成されてゆくのだが、コーヒーと同じでどこに焦点を当てて味わうかで、次のコーヒーの種類が変わる。実感としてではなく、自分の味覚が変わるのである。
 その全体を動かしているのは、いわゆる欲望(希望)なのだが、何らかの味を望めば、失望もするが、逆に希望をあらたにすることもできる。
 要はパンチとコクである。
 どこかでヒットすれば、結果味がやってくる。またコーヒー屋に行くということになる。それは、酒でも会話でも、あるいは服装でも同じである。
 毎回同じプロセスで食物を摂っているとなれば、今年も始まったCDジャズシリーズが先頃創刊された。
 第2回目になる本年のタイトルは”ジャズの巨人”ま、同じであるだけにタイトルも変わり映えがしないが、ジャズが鳴ってしまえば、千幻万化、サウンドが鳴り響く。
 初回の”巨人”はマイルス・デービス。出べそで困っていたトランぺッター、マイルス・デベソである(笑)
 コーヒーはいきなり苦かったり(味)しない。ごくんと飲み込んでから、舌の左右の奥が、苦さを感じ取る。舌の味らいと呼ばれる味覚細胞は、そのように配置されている。
 もちろんこの一連の推移は、いちいちステージ化されているのではなく、口に含んだものがどの味かを探るに際して、その流動物が、舌の上をぐるぐると往復してから嚥下されて初めて、味を脳(全体を統合)が、印象をまとめる。
 それを私たちは普通(無意識)に行い、オイシー、とか、マズイ、とか言うのである。
 味の認知は以上のようなシステムだが、聴・味・臭・触覚も同様のシステムで、脳が判断を下す。(臭い、聞こえない、熱いなど)
 しかし、ことジャズに関してはこれら4感に視覚も加わり、さらに代六感も総動員されて、初めて脳が判断する。(「うーん、良いジャズだ」とか「何だったの、ガッカリ」とか)ともあれ、一年を通じてこれだけの音源(30超のレーベル全26巻)が出続ければ、時にピッタシの体験がやってくる。楽しみである。
 創刊号マイルス・デービスは店にあります。
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by ihatobo | 2015-04-12 16:12

『江戸川乱歩とエドガー・アラン・ポゥ その1』

 没後50年である今年、江戸川乱歩を回顧する催しか増えそうで、彼のペン・ネームの由来である米作家、エドガー・アラン・ポゥにも再び注目が集まりそうである。
 アラン・ポゥの作品は、後に推理・心理小説と呼ばれたミステリーで、近代小説の主要な柱である。
 日本では一段低く見られるミステリーだが、それは人の内面、不可思議であることを題材とした、現代の小説と同じである。
 不思議や秘密に、人は魅かれる。
 結末は、ナゾがナゾとして残されるのが常だが、その残されたナゾが、また人の興味を魅き、延々と物語が続くのも、また常である。
 ゴータマの生誕を祝う八日の日、瀬戸内寂聴さんは、病床を起き上がり、庵内のホールで短い法話を説かれたそうだが、話の中で腰痛で入院していた施設で、ガンが見つかりそちらの治療に専念。一命を取り止めたそうである。
 こうした推移を「不幸中の幸い」というのだろう。
 寂聴という物語は、また延々と続くことと相成った訳だ。
 同様にミステリも不滅であるだろう。
 彼の生涯をご子息の平井隆太郎が綴っている。更に、そのご子息、憲太郎氏が、引き継ぎ、祖父(江戸川乱歩)の遺品(書簡、日記・消息文の他、時計・万年筆など)を整理し、記念館として運営されている。一度伺いたいものだ。



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by ihatobo | 2015-04-09 23:37

『岡崎京子・原画展』と入江宏『メモリアル・アルバム』その2

 岡崎京子・原画展(世田谷美術館)に行ってきた。若者と少数の老人(笑)たちで大盛況だった。30~50代がいないことはないが、いない。おかしな観客層である。
 漫才師が自分の人生を晒すことでネタを芸にまで昇華するのであれば、岡崎は、その人生を漫画というカタチに昇華して作品を残したといえるだろう。
 そして、入江もまた医師という人生を生きながら、アルバムを残した。昨年、亡くなった彼が、もし生きていれば本作が世に出るには時間が掛かっただろうが、久し振りに良いジャズを聴けて、私は、ひとり素直に喜んでいる。内容が良いのだ。二枚組のセットで、4曲の自作曲をはさんで、全19曲。
 残りはスタンダード、他人の曲なのだが、他人の曲も彼が参加していた自己のリーダー・バンドで、リアリティが違う。それらは、実に生々としていて、ライブの体験に、裏打ちされていて輝いている。恐らく、その各々のライブでオマケで演奏されていたのであろう。その他のスタンダードも、体験があってこその輝きを放っている。
 さらに、このレコード制作のコーディネータである米澤伸除のライナー・ノーツが良い。
 それも長年、入江を聴いてきた者のみが書ける、冷静な事実が記されている。かつての60年をはさむ、ジャズの抬頭に身をもって、ある時は金をもって参画したディラクター/プロデューサー達を思い出させてくれた。
 本作品の場合、米澤に役名をつけるとしたら、リラクゼーションだろうが、欧米では古くからこのポジションはあって、発掘展示の直訳はなるだろう。
 4月6日の週から当店で先行販売します。税金は当店負担の他、耳の良い方には、さらにディスカウントいたします。是非、リクエストして聴いてみて下さい。
 岡崎京子作品にある屠所、「流れをマッピングすること」が印象に残った。
 彼女は、宇野千代を初め、下北沢に由縁のある作家の作品を多く読んだようだが、中村次女、加藤允也、愀央子、三好達治、斉藤茂吉、中村草田男ら詞・歌人達に加え、石川淳、水上勉、安吾、太宰、大岡昇平まで読んでいる。
 次世代の作家。文化人は、森莠子、頴原葉子朔美(朔太郎・妻、息子)らがいた。
 会場は、ほかにも盛りだくさんで、3時間程があっという間に過ぎてしまった。彼女にとって採取した、これらのコトバをマッピングすることが、作品を造ることだったのだろう。それ故に、作品は今なお新しい。
 ムットーニというイタリアの作家によるカラクリ劇場も、怪しい光景を造り出していた。ここには老人たちが、膝を詰めて見入っていた。
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by ihatobo | 2015-04-06 19:59

『火花』やっと本編です。相方は、ボブ・ディラン。

 『デザイヤー(欲望)』の回で触れたが、ディランは世間(界)を目前にして、自らの生き様をの晒すのが、うまい。生き様は、とにかくみっともなく、自らの恥部でさえである。
 しかし、ディランが歌うと、それにオレは責任を持っている、という風に聞こえる。誇らしげなのだ。つまり、禍い転じて福となすのが歌えってもんだろ、と言わんばかりである。それが、カッコイイ。
 今回は、その24年後の『オー・マーシー(歓喜)』(89年)である。
 本作は、いわば、その確信犯編で、冒頭のポリティカル・ワールドは、その歌詞9連の中の全てを“政治世界だ”と訴えている。アレもセージ、これもセージ、である。見事、その9連で世相をいい当てている。世間の恥部(禍い)を転じて(福となす)のが歌えってもんだろ、ということである。

 さて、『火花』(又吉直樹)の主人公は、世間の恥部を生き、それを晒して生業する漫才師である。そこに、笑いが起こる訳である。
 お客様によっては、そんなもんを晒して何になる、と思う方もおられるようだが、結果、苦笑いになってしまう訳だ。あるいは、そのネタに力があれば、普通に漫才としてオカシイから、バカ笑してしまうわけだ。
 又吉は、そのステージのやり取りを体験として、ここ(本書)で経験している。
 要は、世相をネタに黙っているボケをオチョクルのが、相方のいる漫才だからである。又吉は眺めている限りではボケ役であるが、実はツッコミ役である。それで読み終われば、灰かに淡い暖かさが残る。哀しいような苦味のような――。

 実に小説らしい小説で、よい。
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by ihatobo | 2015-04-03 18:08

『火花』(又吉 直樹)その2と『入江宏 メモリアル 1955→2014』


 いやー053.gif『火花』は良い。
フツーに良い。
あんなモン読んじゃったら忘れてしまう。
それが良い。
今週アタマに更に版を重ねたと、広告が売り出している。
放っとけばずっと売れますよ。
アーゆうのに賞をあげれば、その賞も立派。
格が上がる。
そーゆうのを「カブ上げたね」と資本主義の時代は言い習わしてきた。
資本(読書体験)は放っとけば上カブ上がる訳。(ね、ピケティさん?)
情報をやり取り(会話)しましょーよ。

 さて、今週は開店スタッフに始まりきのーはその次のスタッフも来店。私をオチョクって帰った。
こーゆうのって、会話だよなァーって思う。
30年以上かけて会話する。
そーゆうのっていいと思う。
この本自体がそーゆー会話で出来てて、それを記録したってのが本領(発揮)よね。
事実居合わせた15年来のお客様と、この店についての履歴を披露し合って、メル友になるらしい。それも情報交換のなせる業。
本人同士はおカネのやり取りしなくていいから安上がりだし、そもそもそこには金(資本)が介入できない。
元男性スタッフは、レコードを三枚も買ってくれて、ご機嫌だったし。
つまり、自分がこの店にいた頃のレコードを見つけて買って行ったので、過去を取り戻したような気分だったのだろう。
店は相変わらず新譜を探し回っては流していますが。

次回は、昨年亡くなってしまった逸材、入江宏のピアノをめぐる世界。
久し振りに良い。




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by ihatobo | 2015-04-02 22:48 | 本の紹介