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『私の個人主義』(夏目漱石)

 久しぶりに、ビートルス・アンソロジーの第一巻を聴いた。アンソロジーは本で言えば、全集である。
 近代(世界)化した“日本”文化が、では一体、世界の文のどの位置にいるのかを探ろうとした出版社が、積極的に古今の文を集め、読んだ。
 それらが、いつしか教義として読まれれば、という規模になってしまった。現在でも、それは繰り返され、これが今の時代の規範とばかりに出版されている。
 『私の個人主義』(夏目漱石 講談社学術文庫 78年再版)には、本当の意味の教養は「自分」を探る情熱(パション)に支えられて初めて身に収まるという事を、繰り返し聴衆に訴えた講義録である。講談師となった漱石がタテ板にミズとばかり本当の「個人主義」を披露している。

 哀しいと言えば哀しい、嬉しいと言えば嬉しくなる快記録である。
 その熱弁は、人生・宗教まで伸びてゆく・・・
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by ihatobo | 2015-01-29 17:51

『気ちがいピエロ』(ジョゼ・ジョバンニ 岡村孝一 訳 早川書店)

 郵便局、銀行の襲撃、大・少の銀行強盗。それらの犯罪旅団を率いているのが、主人公アンリ・フーフーと相棒のピエール・ルートレルの二人。
 彼らはモンパルナスで、溜り場(店)を構えるヤンを頼んでいたパリ中のヤバイ連中のなかでも飛び抜けたワル。当然、今回のヤマ(仕事)でもパリ市警察署長がお出ましになる。プロット警部だ。それで役者が揃う。
 金額の大・少、名もなきスタッフのドジ(失敗)も、なんのその。事件をめぐる知恵くらべの始まり始まり。
 ということで、この小説を背景にごく短いエピソード(場面)を一本の映画に仕立てたのがJ・L・ゴダール、その人。
 『気ちがいピエロ』(58年 仏)だぁ、さぁ、お立会い。パパン、パン、パン。
 当時は「オゲージュのゴダール先生が~」、「ゼンエーもネタ(対象)がつきたんかい~?」と言われた傑作が本作である。物語は波乱万丈、奇妙奇天烈でグングン進む。尾モ白イ(面白い)。
 ただ、映画の国内でのタイトルが「気ちがいピエロ」だったか「勝手にしやがれ」だったか、手持ちの資料では判別できなかった。
 時と場合で、使い分けたのだろうか。
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by ihatobo | 2015-01-28 17:37

『ストレスに負けない生活』(熊野 宏昭 ちくま新書 07年)

 淀みなく流れる治療のルートは、スゴロクのように、その患者の状態によって二歩進んだり三歩下がったりしながら振出しに戻る、というループになっている。
 新聞の日曜版に特集された瞑想による精神疾患の治療のルートは、十分説得的である。
 この記事を作ったのは、当店の自主本『秘密の喫茶店』の第1号で、私がインタビューした熊野 宏昭である。彼は大学の研究施設で所長をしながら、学部(人間健康)でも学生達を指導する教授である。
 そのルートの実際は順番は前後し、各順階では幅が限りなく広がり、大変入り組んだものだ。簡単には紹介できないが、瞑想や座禅など東洋医療に興味があり、その施設に足を運んだ体験がある人なら、その大概を掴むことができる。
 試しに勉強(禅寺、図書館、医療施設)に出掛けてみてはどうだろう、と私は思う。
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by ihatobo | 2015-01-23 07:43

『スモール・トーク』(緑山秋子 角川文庫05→08年)

 途中までは、緑山秋子の筆の運びだったのだが、後半は車雑誌の特集号を読んでいるのと同様で読む力は衰えた。しかし、それにも作者の意図的な物語の運びになっている。
 後半になるにつれて、彼女自身の車に対する愛というか、趣味というか、それが「ス(素)」でなぐり書かれている。ただ前半の、この作者特有の形容(副)詞が、その対象を間近に見せてくれていて、あたかも私自身が彼女の男遍歴を埋めている一人であるかのような、その男たちの乗る(所有)車を私も日常生活で活用しているような気にさせてくれる。
 伯来から国内車まで、各車のポイントがキタンなく扱られいて、自分が高級な車人間になったような気分に浸ることができた。
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by ihatobo | 2015-01-19 18:43

『蛇を踏む』(川上弘美 96→99年 文春文庫)

 芥川賞受賞作品を読んだ。
 大方の予想どうり、女々しい作品であった。艶めかしいのである。そんなに女が嫌なら小説などにせず、放っておけばいいものを、と私は思うのだが、そうもいかないのだろう。
 彼女は好き嫌いとは異う、作品を造っているのである。健気なのは好感するが、踏んでしまえば「仕方ない」。作品中の蛇は化け、「人間のかたち」になる。
 主人公は「考えが散り散りに」なりながらも蛇と話す。ヒトの「かたち」になった蛇は「美しく」なったりもする。その蛇は鼻や耳、皮膚から「私」の中に入ってきてしまう。そうやって身体中に巻きついた蛇を引き剥がしたいのだが、敗けてしまう。
 そうやって「私」と蛇との戦いは、どうも500年以上も続いているようである。
 くわばらくわばら、である。
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by ihatobo | 2015-01-15 20:27

『不協初音 Drsowanzen』(テオドア・W・アドル 平凡社 ~1925~)

 一読、まわりくどい文だが、各々の文を誠実に積み重ねてゆく彼の文は、スペイン語にある間接語法によっており、主従、接属語、形容(副)が、どこへ向けられているかが不分明であるのが特徴である。
 音楽が「所有物」に墜してしまう順序についても、まわりくどい。同等のコトバが次々と浮かび上がっては消えてゆく。
 彼は使用/交換価値の用語(キャピタルズー資本編)を使って、経済の在り様を解説する。資本同様、交換価値もある抽象である。その抽象の直接が貸幣である。
 貸幣を持って、ヒトは様々に、それを使用する。
 その際に、様々な「すりかえ」や「代用満足」(投資貯蓄)が引き起こされれ、人々はそのために安定を損なう。丁度音楽が(メロディ)ラインを声や音で切断され戸惑うようなものである。
 その只今にいるもの(ミュージシャン、演奏家)が力を湧き立たせるようなものである。
 ベートーベンが基礎的事実を、自分の手で造りながら、それを台無しにし兼ねない「歓喜」の手を借りたようなものである。
 いずれにしても、台無しにはならなかったが、誰にもできることではない。のは、もちろんである。
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by ihatobo | 2015-01-08 20:35

『ゲッティン・アラウンド』(ブルーノート)と『底のない袋』(青木玉04→08年講談社)

 ジャケットは着ているものの、遠目には寒そうである。春のお昼頃か、秋の午後といった頃合いに見える。
 最寄駅のホームで電車を待っていると、上りの各停が減速しながら相手側の車線に入って来た。
 まだ三分の一ぐらいしか入線していない時に、上り線の端にいた年配の男性が、電車に突進した。連れの御婦人がコートの袖を引っ張って止める。一瞬の出来事だったから、その前だと思うが、私は「危ない危ない危ない」と三回叫んだ。
 婦人がホーム奥へ退避させたのか、大事には至らなかったらしいことはすぐに知れた。
 停車した電車を中腰になって車内の様子を伺おうとしたが、ホーム側のドアは全て閉じられており、その時に電車の後先を見渡すと、電車は先頭車両の半分で停止しており、相当な急ブレーキであったことが、その時分った。
 車内にも、ホームにもその年寄カップルの影は見当たらない。ホーム端から線路に降り、ホーム下に潜んでいるのか、土手を登って車道に逃れたのか、判然とはしなかった。駅係員、駅の職員の姿も見えない。まるで何事もなかったかのように、数分の後に「平常運転」に戻った。
 私は反対車線に戻り、隣駅で、上りの快速急行に乗る。私も「平常」に戻ったが、電車の回線の内部は忙しく指示が飛び交っていたに違いない。
 どこか街の道沿いの白壁に、自転車に乗ったデクスターが、恐らく通りのこちら側でセットアップしているレンズを、遠目に覗いている写真を、カバーに印刷したジャズ・アルバムがある。
『ゲッティン・アラウンド』(ブルーノート 62年)
 丁度私が急停車した車両の中に、老カップルを探して、腰をかがめた視線だと思う。
 路幅もホーム幅、レールを含む鉄路上下2線、とこちらのホーム奥行を併せると、彼の視線の深さが、丁度同等に見える。
 ビーバップの狂操が一段落し、ヨーロッパに移り住んだデクスターによれば、それを鎮魂する気分が、湧いたのも無理はない。
 件の老カップルも恐らくは夫婦間の狂操の果てに、夫は鉄道に身を投げるまでに思い詰め、婦人も一旦は同意したものの、どたん場で思いとどまったのであろう。
 私はその狂操に鎮魂の祈りを捧げる者であるが、季節が夏であろうが、秋であろうが、柿の実の穏やかな色を感ずる本作品を、晩秋を思い浮かべながら、新年を迎えたのもそうした色合いに共感したからだろう。
 青木玉の想い浮かべる色は、そんな身内の複雑を反映しているのではないだろうか。
 この本は心に浸みる行間がある。
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by ihatobo | 2015-01-03 18:26