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『紙の月』その2

 この手の物語に脱出口を与えるのが映画だが、作品を享受する側では映画の方が相性がいい場合と、いや文字で観る方が想像が自由で楽しめる。途中で本を伏せれば、トイレに立つ自由もある、との主張もあるだろう。

 しかし本書は、同じような登場人物が各々に真摯に自分を生きているために、画面で観る方が、より濃い享受体感ができる。とする趣もあろう。
 お店のお客様の動向をみていると、まるで映画を観ているように感じることがあるが、役得と考えておけば正解なのだろうか。
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by ihatobo | 2014-10-31 09:14

『紙の月』(角田光代 07~8年→文庫化改 3月刊 ハルキ文庫)

角田光代の『紙の月』を原作に、主演を宮沢りえに据えた映画が公開(11月15日)されるというので、本作を読んだ。
映画はもちろん、本作も読む前から、どんな物語がそこに綴られているか、私には分った。
通常のブックカバーに、もう一葉の、映画化に伴う改版ですよー風のカバーが重ねられてあり、そこにショート・カットの宮沢りえが配されている。
一瞬誰か分らなかったが、こちらを見凝めている目は、確か彼女のものである。
罠に誘う目である。
物語は、確かにその通りであり、罠に嵌まり、捥く主人公がそこにいた。
主人公の捥きの飛ばっちりを受けて、捥く取り巻きも、各々に真直ぐな想いを携えていて、私を前へ進む気持ちにさしてくれる。
映画の初日が楽しみである。本書には200円の割引きがついている!

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by ihatobo | 2014-10-29 20:53

『春宵十話』(岡潔 角川ソフィア文庫 1969-2014 改版)

 ジュリエット・グレコが来日公演をこなして帰って行った。
 新聞に載ったステージ写真を見ると、自分の過去⇔未来が混乱する。写っているのが淡谷のり子であっても、シャルル・トレネであっても、私は納得するだろう。
 パリがドゴール率いる部隊によって解放された頃のカルチェ・ラタンが、この秋に東京のステージに出現したのだ。
 マイルスとグレコの恋仲を唱った『PARIS』(マルコム・マクラーレン 94年 Vogve)の回で触れたように、「暗い満足感」に浸れる。
 が、「暗い満足感」と言っても、本作は、数学の本質を拝んだ若者が「―価函推論―Lecons sur lesfonctions uniformes」を書き上げた経験を基に更なる広大無辺の未来を指示していて明るい。
 地理的にも歴史的にも関わった人は、自由を得て解放される。
 「心丈夫」になる、と著者は言う。

 ところで、2~3年以前から私たちの店に持ち込まれているペーパー・マガジン kobutu(好物)があり、私はこのフリー・ペーパーを気に入っている。
 内容(本文)も偶然に導かれて前段の文を受けて、“好物”を軸に飛躍する。その対象(好物)の選び方も、センスがいい。スゴク
 文の全体の行数を含めた運び(レイアウト)も流れている。自然に。
今回(発行所、スタッフの固有名の奥付けデータ)を見て、ちょっと驚いた。発行日で換算すると年に一回発行。つまり本誌は年刊誌なのだ。
 ということは、毎年何部かを刷り、脚本し、その周期で2~3年以前に気が付いて私は毎号読んでいることになる。
 今回、“好物”第三者号と印刷されている。いい感じの、のんびり呑気である。
 ちなみに、私の人生の標語モットーは元気、呑気、素直である。
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by ihatobo | 2014-10-25 18:34

『ドミトリー ともきんす』(高野文子著 中央公論新社 10月 新刊)


 待っていました。
 高野文子の新作です。
 『絶対安全剃刀』から、やっと6作目。
 三作目『るきさん』の時にユリイカが彼女の特集を組んだから、表紙に名が印刷されるのは、絵本を合わせると五度目。既に30年余りが掛かっている。『おともだち』の時の芝居用のポスター「また会いましょう」も店内にその間居坐っている。
 『かっこいいスキヤキ/泉冒之』の久住冒之は、彼女のファンだ。久住は『花のズボラ飯』の方を知る人の方が多いかもしれない。
 トニカク高野文子デアル。私もファンのひとり。
 で、内容は次回に。
 買って来て、まだビニールに包まれたまま店内に飾ってある。ページを開くには、心構えが必要なのだ。

 ということで『もう年はとれない』(ダニエル・フリードマン)をやっと読了した。結果は予想通り「暗い満足」を私は得た。しかし、それは本来の意味で「自分自身についての感覚を取り戻した」ということだ。
 彼は、かつての同僚の「あごの右側に押しつけたマグナム357の引き金を引いた、左目と後頭部が消えうせ彼はわたしの上に倒れかかった。」(…)
 ナゾは解けないまま残されるが、そのことを私は忘れないと後継の刑事に言明させるカタチで物語は終わる。これで最後だ。
 私はトホホと思う。ダヨナァーとも。
 さぁ、今日も仕事だ。

――みなさーん。コーヒーが入りましたよー。

本書は
 「20世紀に活躍した日本の科学者たちは 専門書のみならず、一般向けに多くの随筆を残しました。
 21世紀の今、一組の親子が時空を越えて彼等と出会う。
 読書の道案内として、一冊どうぞ(作者より)」
 と帯にある。

 こちらも読了後、本来の意味で「自分自身の感覚を取り戻す」ことにあるデアロー。
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by ihatobo | 2014-10-21 19:40

『舟を編む』(三浦しをん 光文社 11年)

 前後するが、伊藤比呂美は、自分の私生活の所作を、自らの作品である。と宣言していたが、それこそが喫茶店であると私は考えている。

 さて、今回は『舟を編む』(三浦しをん 光文社 09年→11年)である。
 著者は、『格闘する者に○』(00年)でデビュー、06年『まほろ駅前多田便利軒』で直木賞、本作で芥川賞を授賞した36才の才女である。
 伊藤と同様の職歴を持つが、言葉は言葉でも対象はより具体的な辞典の編集/校正者を主人公に据えて、自己言及性も何のその、とばかりに物語を造ってゆく。
 その「大変特殊な世界」を、著者は「舟」にたとえて本書を発案したらしい。
 以後のページは、辞典の項目に沿って話しは進む。即ち、語義(源)に始まり、その解釈(語釈)を簡潔に述べ、更に実際の文によって音訳される場合がある漢字の音表記の用法/用例と続き、そこまで来るとひとつの字に幾重にも重った表情が浮び上がり、記述自体がパンクしてしまう。
 主人公真締(まじめ)君は「頭が破裂しそうです」と言う。そこから逃れ出るために、一層語にのめり込む。その熟語は二字「恋愛」!という具合で立派な辞典編集者になって行く?というサクセス・ストーリーは続く。
 何と香具矢(かぐや)という女性も表われ、より一層物語は高みへ登ってゆく。
 編集が終り、印刷→製本へとまだまだ果てしない旅は続くのであった。そうやって書店の棚に本が並ぶのであった・・・




 
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by ihatobo | 2014-10-18 01:47

『本暮荘物語』(三浦しをん 祥伝社文庫 10月 新刊)

 代表するふたつの文学賞作品だから、売れて当たり前なのは奥付が物語っている。
 それを、今さら紹介するまでもないが、すぐに手に入れて読む習慣のない私であるから仕方ない。
 へそ曲りというのだろう。
 ただ偶然が重なれば、そういう年もある。今はふたつの賞が、共に年に二回だからトータルに振り返れば、三年に一度くらいは作品を読んでいることになるが、新刊の点数が多すぎて三年に一作というのも私の新しい習慣には、今後ならないだろう。
 本書は12年発刊だから、二年余り頭抜けて早い。作品の骨格は『船を編む』と同じ、登場人物も年齢も職業も性別も多採も同じである。加えて、設定も『船を編む』を就踏している。
 楽しみなシリーズになりそう。
 瀕死の老人が、望むものの「本質」が「人の不思議」というのも。今度は、春から読んでいる物語が、私のなかでシリーズ化しているのも「不思議」である。
 さらに本文庫には、「本暮荘に寄せられた声」という三人の寄稿がまとめて読めるので、より物語は奥行きを深める。
 とにかく、面白い。オススメです。
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by ihatobo | 2014-10-17 22:11

『女の一生』(伊藤比呂美 岩波新書14年9月新刊)

 本書は、「自分であることが一生の命題でした」という著者は、生まれてこの方、女であります。と最初の一行を書く。宣言である。女宣言。
 そこから始め、その自分が老いつつあること、(女の)「苦労はたいてい経験し」たこと。それ故に「今では、物事がよく見通せます。人の悩みに助言もできるようになりました」という。
 私は男(の人間)だが、どうも参考になりそうである。
 彼女は、私より3~4歳若い世代だから、「子供じみたこの時期の“解放感”に」冷やかに接することができた。
 いわば体験なき経験が、彼女の課題となり、彼女にとっての実感で触れられたマンガにのめり込む。
 その内に自分でも描きはじめるが、その間新たな課題探しも始まる。それが冒頭の一行、「自分であること」に励むことになる。
 しかし、励むというよりのめり込んでいたから、身心ともに疲労。その為に身体と精神を共に病んでしまう。
 その頃に彼女は<詩>に出逢う。「書きまくる数年間」が始まる。精神の病がその日々で癒されたのだろう。心身が依存の対象をズラしたのだ、と私は思う。
 それでも依存だから、「治ったわけではない。」と彼女は書く。
 しかし、それらの詩文の群を『現代詩手帖』に投稿し始める。
 それでも、私生活は混乱を極め、母親との母娘ゲンカは日常的であったようだ。
 その日々を詩人仲間の紹介で詩誌の「使いぱしり」「編集/校正」翻訳、下訳などを扮し、多忙を極めてゆく。
 そして、78年に、自費で自作品を出版する。
 更に、その直前「詩手帖」賞を受賞。一躍詩壇の仲間入りを果たす。傍ら教職に就き、一挙に「社会」人として自活の道を歩み始める。
 が、以後も「人生は若気の至り」で満たされて今日に至る。
 というプロセスを経て、本書冒頭の一行となる訳だが、そもそも「宣言」や前書き、後書き解題、添え書き、ト書き、吹き出しなどの短文は、本質的に文学に貢献しているから、依存の対象は文学ということになる。そのことは著者が文学者となったことを証している。
 前回のクリント・イーストウッド本の著者も既に文学者である。評語、評伝、解訳も、全体を見渡せば、短文である。
 なかでも、妊娠/出産に関する章で「みなぎる多幸感、全能感が(…)未来を拓く」という記述には圧倒される。本書は、数々の女性の質問に伊藤が応えるというカタチで進められるが、それらが一貫して自作の解題、後書きになっている。特に私は親の看病/看取りの章が切実に共感した。彼女は母の呪いを引き受けて、今後もいくらしい。

 さて、まだ読んではいる『夜の果てに』も飽きたとはいえ最終数十ページを残すのみとなった。
 次回はまたそちらに戻ろう。
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by ihatobo | 2014-10-15 22:54

『もう年はとらない』(クリンスト・イーストウッド 2014年)

 もはや冬の嵐のスキを見て、高橋恭司展!に出掛けてきた。写真は、一瞬の光景が時の流れを庶切って永遠に残る。
 時の流れというのは、映画もそれを切り取って、フィルムに焼きつける。
 全体の規模(スケール、集う人数etc)は違うが、時の「流れに棹差す」(漱石)という意味では、同じ。重なっている。
 焼きつけられたものは、共にフィルムである。いわゆる“物性”である。手許に残る。
 ということは、ソレはとりも直さず手を入れれば動き出す体系(システム)を携えてきている。放っておけば、そのままソレは動かない。(当たり前)
世間の“法”と同じである。犯罪を犯さない限り、“法”は私たちを放っておいてくれる。法律は守らなければならない(笑)にしても。
さて、“ダーティ・ハリー”イーストウッドである。法律を守り/守らせるのは警察官であり、検事である(当たり前)。
 その主人公が“法”に手を入れる時のコトバがナゾである。
 ある事件が起こる。捜査は一つ一つの現象の事実を集める。そこにナゾのコトバを差し込む。(ダーティ・ハリー)イーストウッドは、それを解釈しない。次の現場に向かう。何か月もかかって、すべての現場と登場人物の詳細な事実を集めてゆく。その作業が捜査である。そして全体を調べ終わって初めてそれを見渡す。ナゾを解いてゆくプロセスを辿る。すると、必ず事実相互に矛盾が見つかる。
 それを再び丹念に突き合わせてゆく。そうして、やっとダーティ・ハリー自身がナゾを発見できる。見えないからナゾである。
 そのナゾを自分の判断で確定的に解いてみる。そうして、やっと犯人が浮かび上がる。
 彼(女)の他にいないと。その事件に辿ってゆく彼の頭と行動を本書著者は記述してゆく。本書は、その事実集めの日誌である。日誌というよりも、その事件をめぐる物語、である。
物(事実)が語ってくれる。面白い。
 結果、読後感はずっと読んでいるセリーヌ「夜の果てへの旅」(前回、紹介)同様、明るくさわやかである。
 高橋の写真も明るく、さわやかな印象を私に残したが、静かであった。
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by ihatobo | 2014-10-08 10:02

『もう年はとれない』(ダニエル・フリードマン著 野口百合子訳 創元推理文庫 2014年)

夏が終わる。
特に、今年は、目覚めてから服を撰ぶ、のが、難しいのはいつか触れたが、季節は巡りここ10日くらいは、ミモザの風が通勤を後押ししてくれる。
実感することは易い。五感が目覚めていれば、こうした心地よい気分も易くやってくる。
本書は明治の詩人、荻原朔太郎(1886-1942)による与謝蕪村(1716-1783)の評伝であり、“郷愁”のコトバによる「詩」の「本質」を探究した“記述”である。
本書の著者、山下一海は、朔太郎が発行した詩誌の後継者だが、ずっと若い世代である。
しかし、本書を丹念に読み込めば、世代が重って「いたかどうかなどは問題ではない。」
「つまりは」著者自身の表現である。
本書を味わうのは蕪村を味わうのと同じである。

他に、山下の詩的用語として、「杜撰」「追懐」「家郷」「感流」「音象」があり、はなはだ興味をそそられた。
音楽はリアルタイムで流れゆくもの、であるし、琉球フォークを専門に記述/採譜している伊波(沖縄のわらべうた CBSソニー→SONY 25AG454〜)を引き継いだ仲吉史子によると、それらの用語がピタリ、解説文(仲吉による)のオリジナル(太祖)になっているからだ。
次回は、その同じ用語で紹介できる映画ディレクター/ミュージシャン、プロデュースの、クリント・イーストウッドの評伝/伝記『もう年をとれない』(ダニエル・フリードマン著 野口百合子訳 創元推理文庫 2014年)を紹介する。
「アルツハイマーを発症したのではないかと怯えている87才(クリント)」が活躍している、これはその映画の原作である。楽しそう
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by ihatobo | 2014-10-01 20:49 | 本の紹介