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『本の森の狩人』(筒井康隆 岩波新書1993)

 D・H・ロレンスの「チャタレイ夫人」(訳・伊藤整 新潮社→1950年)の項で筒井が書くように、「傑作がそんなに次々と生まれるわけはなく、新作でいい小説がないとやっぱり話は古典に向いてしまう。」

 「新刊と新譜を追い続けて36年」のこの店も、そんな場合、関心は未読の本、未聴のCDへ向いてしまう。

 本書を通読すると、読んでみたい本がまだまだたくさんあるのに気づかされる。
 私は筒井より15年程若いが、この項に述べられている「チャタレイ裁判」(1950年)が、ずいぶん騒ぎになったのを私は知っている。
 それはこの小説の内容が猥雑か否かをめぐるものだったので、戦後間もない世相を反映していたのか、それをめぐる報道に対する親たちの酒場談義だったのか、ずっと後になって学校で教えられたのか。
 ともあれ、“出版/表現の自由”の議論であった。
 それは最近の「不倫」騒動で、世の奥様方が“恋愛の自由”について議論しているのと同じである。
 「自由」はむずかしい。

 さて、「毒にも薬にもなる話」は措くとして、私は本書を離れ彷徨ったあげく、『ジャズ小説』(筒井康隆 文春文庫 96→99年)を読んだ。そこにはナント、不自由が書かれていたのであった。

 で、結果私は、窓磨きと床の雑巾がけに励むのであった。

 P・S 8月からコーヒー2種の豆が変ります。フレンチ・ロースト(中煎り)のA、Bが共により一層シャープになります。
 Aはコクと香り、Bはスッキリした苦味です。是非楽しみにご来店下さい。
 2.しかし、この短篇集は面白い。
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by ihatobo | 2014-07-30 22:48

『/05』(坂本龍一 2005年)

 坂本龍一をかける。店内の掃除をし、開店に向けて野菜類の細かなメンテナンスの作業をしていると、レタスの葉をちぎる音が曲の合間に聴こえる。
 耳はピアノに向いたり、ピーマンをこする指の音を行ったり来たり。それらを水に浸し、ひとつの作業が終わる。
 その途中でスタッフが出勤してくる。開店30分前、レジの決済、買い物チェック・仕込み、豆の在庫確認などコーヒー関連のFAX・・・
 その頃になって、CDが終わる。
 さぁ、今日も始まる。
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by ihatobo | 2014-07-30 17:37

『アキサキラ』(セシル・テイラー・トリオ 1973年)

 ここ2~3年の間に、お顔を覚えるようになり、その後も年に2~3回の周期で、お店を訪れるお客様がいます。
 彼がいうには「30年以上前から」知っていたとのことですが、私には覚えがなかった。
 前回、短くお話が出来たのですが、それも年明けだったと思います。しかし、その時に互いの自宅の最寄り駅が同じという事が判明し、「そのうち駅で会うかもしれませんネ」だったのだが、今回も「なかなか会いませんネ」で彼は帰って行った。
 今回の話では、思い通りほぼ同年代で、高校からの時期に同じ外タレ・コンサートに、どうやら同席していたことが判った。その偶然の一致が、ピット・インの山下洋輔トリオ沖合のフランスからの帰国ツアー、日野皓正・渡米コンサート、そして本アルバムに収録されているセシル・テイラー・トリオの初来日コンサート。
 ま、ここまで知ると偶然とはいえず、たまたま価値観が共有されていた者同士が、「30年以前から」私たちの店を“共有”しているということだろう。
 この店が開店したのが77年だが、その年の“ライブ・アンダー・ザ・スカイ”というジャズ祭りが、今は無い貴重な田園調布コロシアムという、その街にとてもよく調和した建造物で催された。
 私は、その翌年のエルメット・パスコール、エリス・レジーナの夜に出掛けて行ったが、彼はその翌日、最終日のV.S.O.Pの夜に行ったらしい。夕立がすごい夜で、当夜、帰って来たお客様が「もー大変だった。ズブ濡れだよ」と口々に言い合っていたのを思えている。
 さて、本アルバムは2枚組で4か所のライブが収録されている。新宿厚生年金ホールで、そのことを私は『カフェ・モンマルトルのセシル・テーラー』(MUZAK MGCB-1216 62→08年)のライナー・ノーツに書いている。

  それはノンビリとした懐旧ではなく、ハッキリと甦る画像である。その画像はセシルの演奏と実は同等なのである・・・(全文を本ブログで読めます。)

 今回の会話は、まだまだ続くのだが、また次の機会に。
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by ihatobo | 2014-07-29 09:59

『カミュ』(モルヴァン・ルベック 高畑正明訳 人文書院 1967)

 新作より他の過去に書かれた小説の記述を辿るうちに、その時代の風俗、文化が生々と見えてくることや、近代になれば国境をめぐる経済、政治、法が周辺を含めた人々に何をもたらせたのかが分る。
 それを「歴史」というコトバで知の蓄積をしてきたのも、近代である。

 本書はアルベール・カミュの作品を批評、分析しながら、その短い生涯を明らかにした“作家論”である。
 しかし、たとえば代表作である『異邦人』(57年ノーベル賞)を、私たちは小説(ロマン・ノベル)として認識しているが、訳者あとがきによると、カミュ自身もそれを物語(レシ)と呼び替えている、という。
 つまり、時代への「参加」という側面では「歴史」書であるという。
 ところが前回の筒井康隆の訳す『悪魔の辞典』(アンブローズ・ビアス 講談社 1911→2000年)によると、「歴史」とは、

 ー だいたいにおいて悪漢である支配者と、だいたいにおいて阿呆である兵士が惹き起こしていた、だいたいにおいてつまらぬ出来事の、だいたいにおいて間違った記述

 とある。

 アンブローズの本は1911年に発刊しているので、前回述べたように、当時に歴史なのか、物語りなのか、いや新たに「小説」というものが独立すべきだ、という揺籃する時期を反映した記述になっている。
 どこがどう違うのか、そもそも何故その呼び名にこだわるのか、それを考える“補助線”になるのが、「ヒストリー(歴史)の初めの2文字hとiを除けば、ストーリー(物語)になるでしょ?」というこじつけがある。
 そのオチはhis―story。
 そうではなく、「小説」なのだ!というのが、カミュにも筒井にも共有されているもどかしさ、である。
 私自身は加えて歌唱(chant―son)が時刻を孕んで成り立つことを強調して、もどかしい想いを、ここで吐露しておきたい。

 『本の森の狩人』はまた次回に。



 
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by ihatobo | 2014-07-26 01:36 | 本の紹介

『短篇小説講義』(筒井康隆 岩波新書90年)

 近代になってから、詩や戯曲ではなく、“総合芸術”としての「小説」こそが、そこを生きる“自我”が、自らを自由に表現できる文芸形式である、ということが、人々に認知される。
 ところが、それより更に100年余り以前のドイツ前期ロマン派では「最大限に空想の自由が許されるメルヘン(童話)こそが文芸作品の規範とされた」
 この段階から後期ロマン派と呼ばれるホフマンやグリム兄弟が現れる。
 この『ホフマン短篇集』を訳した池内紀によると、彼は作曲、指揮、音楽批評、絵画をよく扮し、判事を務め、劇場監督も務めた、という。
……誰かを想い出さないだろうか。宮澤賢治である。
 彼は化学者であり、教師であり、サラリーマンでさえあった。(08年7月の本ブログ『宮澤賢治―あるサラリーマンの生と死』参照)
 さて、本作では、対話体の「軽さ」と「飛躍」を使って“空想”の重層を生み出すが、私が共感するのは窓外を流れてゆく、あるいは停まっている人物の「点景」その人物の「ほんのちょっとした特徴からの連想」で、筒井はそれらを観察→描写→連想という風にまとめている。
 あるいは、それが作品に構成されないままの文をスケッチと呼ぶ。つまり、この流れから連想を除けばそれは絵画であり、写真である。ここでいう連想こそが作家の記憶であり、コトバである、「文でしか表現できない」
つまり、ホフマンから100年余りを経て写真の技法が現れ、絵画は見えたままを写し取る印象派の時期を迎える訳だ。
 筒井は、この本で、過去の古典作品の現代性を読み取っているが、ロシア・フォルマリズムの用語である“遅延”や“後説法”など「時間」の順序の入れ替えによる現代文芸の有様にも迫ってゆく。
 著者自身のいう「ハラハラ」が、本書を一貫して流れてゆく。
「時間」を失い見えるままを描けば画(平)面はどこまでも拡がり、滑り行き、収拾がつかない。
 ポスト印象派の画家たちは、だから色の重さ/軽さ、その混じり具合(重なり)点描による偽りの奥行き、形(アウトライン)の配置といった技法によって画面を構成した。
 それらは、しかし、とりも直さず版画である。
 9章「新たな短篇小説に向けて」で筒井はこう述べている。
―さまようディスクール(言説)ためらうテクスト、エクリチュール(記述)の混乱といったものは、現代的な作品にこそ似つかわしく……と。“巨匠”は現状に「飽きあきしているのである。」
 次回は本書のあと、3年後の出された『本の森の狩人』に私が読んでいる作家が何人か選ばれているので、そちらを紹介しようと考えている。
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by ihatobo | 2014-07-24 22:37

『隅の窓』(E・T・A・ホフマン「ホフマン短篇集」)

 丁度ここ一年程になるのだが、私にとってのヒミツの喫茶店を見つけ、通っている。
 何の要素なのか色々と考えるようになったのは、極く最近だが、まず窓があり、表通を眺めていられること。店内も程よく広いこと。つまり、店側の人間としゃべらなくてもいい雰囲気がある。
 エゴ(自我)をいえば、キリがないので、できればアレも欲しい、コレはないほうがいい、とはいわない。決して慎しさを自分で演出しているわけではないし、ほんの20分足らずの自分の時間が欲しいのである。
 窓外を通ってゆく人々を眺めていると、バラバラになってしまった自分が、ようやくまとまってくる。
 何と何がどういう脈絡でつながり、枝葉をつけて一本の木となったのか、それは不明なのだが、しかし、「ようやくまとまって」きた、という風に感じ、表通りに出る。そういう日は、光でも、雨でも美しく感じることができる。風を切って進む。
 そんな短篇があることを『短篇小説講義』(筒井康隆 岩波新書 1990年)で知った。
次回はこの本を紹介したい。


 
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by ihatobo | 2014-07-18 23:02

『愛と暴力の戦後とその後』その2

 「自分」探しは無駄、というのが養老さんの『「自分」の壁』であったが、本作は重なる情熱をもって「自分」を記述・論証しようとする意欲作である。
 以前、第一報をリポートしたが、今回、ようやく半分の第5章までを読んだ。『「自分」の壁』も激しかったが、本作もしんどい。
 第一報は「意外にも柔らかい」が私のコトバだったが、その柔らかさが本書では全面展開されている。作家のエッセーというよりは、自作(『東京プリズン』)の解説,メイキングといった趣きである。
 著者は(日本)社会に対する居心地の悪さを発端として、以後そのフレームで過ごして来た。その時代を相対化しようとしている。
 しかし、単なる(サブ)カルチャー史にはなってはおらず、むしろ歴史学の一種とした方が当たっている。いや、社会学であろうか。
 作家である彼女は、文を書く。しかし、その文を構成している日本語を疑っている。

 日本語はどこまで私たちのものか(第2章)

 この章は私たちの店でも重なる情熱を持って、日々問題にしている。
 新人スタッフにレシピを伝える際、お客様の様々な問い合わせに対応する場合など、交わされている日本語がどこまで私たちのもの(共有)か、実に高い「壁」が聳える。
 幸い、主にレシピや店の紹介といった「運動系」のコトバがそこで交わされるので、つまりコトは曖昧なままフェイド・アウトするのだが、くり返しくり返し「壁」はやってくる。
 「不思議の国のアリス」の様なものである。「偶然と直感」が何もかもを溶かしてしまう。ところが、赤坂は当たり前だがフェイド・アウトで善しとは(なかなか)できない。彼女は哲学用語の「直観」(カント)を使うが、う~ん、ビミョーである。
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by ihatobo | 2014-07-16 23:24

『つづれおり―Tapestry』(キャロル・キング ode/sony 71年)

 「ミュージック・フェア」といえば、当時(70年前後)ブームだったキャロル・キングは出演したのだろうか?もっとも彼らは国内のミュージシャンも含めて、TV番組に出ない、というのが暗黙の合意だったから、日本の画面に彼女は出なかったかも知れない。
本作が何故ブームにまでなったか、私は調べていないが、その音楽の質が良かったことがひとつ。
そして、本作のカバー写真に映った猫の巨大さが、イッツ・トゥー・レイトに織り込まれる猫の鳴き声が、耳目を集めたのは確かだと思う。
ジェフ・ベックの猫も写真で見たことがあるが、あの長身ベックが下腹あたりで抱えて頭が彼の顔と並んでいた!
日本では遠藤賢治の「カレー・ライス」がヒットしていた頃である。
エンケンの猫の名はネコである。「ネコ、ネコ、あれが太平洋~」と彼は歌った。
さて、キャロル(とG・ゴフィン)の曲には暫々「教会旋法(チャーチ・モード)」と呼ばれる音階が使われていて、近代的な意味での“コード進行”が最終的に途切れてしまう。
実際の演奏は、そういうわけでフェイド・アウトか、“アーメン終止”で締めくくられている。
それが、まさにポップであった。
 更に、歌詞が日常ではいい表し難いコミュニケーションの“あわい”を見事に歌うために、そこにある。
一旦「愛」に踏み込んでみると、誰しも身心は“覚束ない”
エーゴが不得手なので超訳すると

ー 発語されなかった、この夜のコトバ
  you say that I'm the only one
  でも(いま)私の心は崩れている
  夜が更けて、朝の陽が上がっても?
  (ウィル・ユー・スティル・ラブ・ミー・トゥモロー 62年作)

日常会話では「不安なの」と女がボソっと発話する場面である。
サイモン&ガーファンクルの回でも触れた(ハロー、ダークネス、オールド・マイ・フレンド)けれど、語の順番や構文、時制がこみ入って、歌われることが主眼になっている。
日本語の直訳は

ー 今夜は一言もしゃべらずに
  私がたった一人の恋人と、あなたは教えてくれた
  でも、私のハートはこわれるかしら?
  夜が朝に出合ったら

である。

 説明的、論理的なコトバで本当に思うことが実行されても公衆(ポピュラリティ)は離れてゆくのは、当たり前。
ポップ!でなければ。


 
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by ihatobo | 2014-07-12 02:17 | CDの紹介

『「自分」の壁』その3

 本書の“カゲキ”な記述を紹介したかったのだが、私(「自分」)の主題(テーマ)でもあるので、以後に追々紹介することにします。
 それよりも、私たちの店の運営と直接繋がりがあるわけではないが、
この村ではこういうやり方が向いているが、あっちの村には向いていない。それは、土地や人間が違えば当たり前のことです。(本文)
 この村を店に置き換えるならば、私の考えとピタリと一致する。
何も私たちの店が村であり互いに馴れ合ってナァーナァーの閉じた共同体である、といっているのではなく、事業の規模が小さく作業が込み入って、しかも店としての体栽も整えなければならないために他(あっち)の店と違っていても気にならないのである。
 次のように養老さんは述べる。
 だから、みんなが丸儲けの考えがあるという考え方は怪しいのです。虫を見ていても、そのことはよく分ります。
 彼は昆虫がスキでよく山へ入ります。その部分は本書を読んでいただくしかないが、接客と作業を長く繰り返していると、ある一つ考え方ではやっていけないのがよく分るのです。

 みんなが丸儲けというのは、どの店も私たちの店のようにすれば万事安泰である、というような考え方のことです。他の店の方々にそんなことをいったら、「放っといてくれ」とたちまち追い出されるのは間違いない。あるひとつの考え方というのは、そういう事です。
 著者は同じページで、
 しかし、生の付き合いが減るとどうしても純枠な方向に行ってしまう。
 この固処を私なりに翻訳すると、つまり、一般のお客様(私の用語では一見の客といいます)は「生」であり、「自然」です。どこの誰かも知らず、何かの「理由」があって、この店を訪れたのかは私たちには知られていない。
 そうした「一見の客」は「生」ですから、逐一、店の内容を案内するのは厄介になってくる。しかし、その作業を省略してしまうと、いわゆるジョーレンばかりになってしまう。そうなれば、店は馴れ合いの店になってしまう。前に述べた通りです。
 前回“ヒカリエ”のところで述べたように、ひとつの考え方で「村」を造ってしまうと、公衆は離れてしまうのです。
 規模が小さければ、「放っといてくれ」で済みますが、“安全・快適・便利”が大規模に実現されてしまうと、そうもいかない。
 私自身が「放っておく」しかない。結構「強さ」を要求されます。
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by ihatobo | 2014-07-11 18:47

『A列車で行こう』(デューク・エリントン)

MGM映画『パリ・ブルース』(サム・ショウ制作マーティン・リット監督1961年)のサントラを最近よくかける。
 というのも最近知った店で、すさまじい「A列車で行こう」を聴いたから。
 私はシオノギ提供のTV番組「ミュージック・フェア」でデューク・エリントン楽団を観たことがあるが、その時以来のバクハツ!であった。
 その番組で当時(70年前後)は、フォークからサイケデリック、クラシックまでほんの一年に一回くらいをみていたが、そのデュークの楽団は本物であるのが、観ていて即座に理解できた。
 「直観」や「偶然」を頼りにチャラいミュージック・ライフを送っていた私にも、即座にそれが“永遠”であることが分かった。いわゆるオトナなのである。
 やる事が決まっていて、それを一瞬の手抜きもなくやっている。近頃の“アーキテクチュア”シングスだった。
 さて、本作は、エリントンの作品をルイ・アームストロングがフューチャーされてソロを取っている。映画の方はポール・ニューマン、ジョアンナ・ウッドワード、シドニー・ポアティエが主演。5分足らずの動画も本CDに収録されている。
 ということで、今度その店に行って店主にすさまじい方の「A列車~」の出どころを問い合わせてみようと思う。
(本CDは1997年のRYKOの制作 B,Cは1443107132)
 制作のサム・ショウはマリリン・モンローのスカートを押さえている写真で有名。ちなみにMGMの『Blow Up』はそのスカートが「捲れ上がる」の意味。写真家が主人公です。
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by ihatobo | 2014-07-09 21:44