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『チャーリー・パーカー』(河出書房新社 文芸・別冊)

 本シリーズは『ジョン・コルトレーン』(12年)に始まり、昨年はジャズのレーベル名である『ブルー・ノート』で、本作が第三弾。他に音楽家シリーズでは、ジョン・レノンからグレン・グールドまでがライン・アップされている。
 本年は続いて小学館から大型企画『ジャズ 100年』も出版されている。こちらは初版25万部、駅のKIOSKでも売られている、という。(ダイシェストのCD付き)
さて、本書は、88年にクリント・イーストウッドが監督・制作した映画『バード』が、ゴールデン・グローブ賞を受賞したのを受けて、一躍、彼に対する再評価とそれに伴うアーカイヴ化のために、公的な調査、研究が進んだことによる発行である。本書にはそれらの成果が満載されている。
そうしたある種ブームともいえる時代の動きは、本ブログでも紹介した『詩という仕事について』(J.L.ボルヘス 2000→10年 岩波文庫)発刊の経緯でも触れたとうり、ほぼ10年遅れで日本でもモダーン・エイジに対する関心が一搬している。
日本語化したノスタルジィではなく、つまり、「ナショナリズム」の風潮に踊っている“ショーワ”ではなく、モダンの本性である「異国趣味」や自国の相対化(歴史)といった探究を、ほぼ100年後の現近になって、再検討、“脱構築”しようとする時代の関心によっている。
 この作業は、実に面倒で、文の矛盾やそれ故の誤解に晒されるのだが、「データベースを解析できる一部の知的エリート」とスマホをいじる(情報)消費者との溝は深い。(佐藤卓巳)
 前回の『Getz/Gilberto』と『プルースト・印象と暗喩』では、分かり難いいい回しになってしまった“スキマ”が、この溝ともいえる。

 私たちの店には音楽がある。
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by ihatobo | 2014-06-27 22:54 | 本の紹介

『Getz/Gilberto』(Verve 63年)と『プルースト・印象と隠喩』(保莉瑞穂 97年 ちくま文庫)

何年かの間隔をおいて、何回目になるのか、先日、本作を買ってきた。イヴィ・メンデス同様に、街のコーヒー・ショップで聞いたのがキッカケ。
ドキドキしながら店でかけてみる。
思ったより古くない。そして、ゲッツの音である。
こんなに鳴っていたという(再)記憶がない。
長谷川きよしがどこかでいっていたように、曲が短くない。(「聞いていたものを、改めて聞いてみると、当時聞いていた時よりずっと短く聞こえる」)
そして、その頃の「サンデー・サンバ・セッション」を想い出す。

彼は「別れのサンバ」でシーンへ登場したあと、この頃(76年)下北沢ロフトで、同じタイトルの連続セッションを開催していた。
想い出す、といえば、一時期フローベールをめぐって、「想起」という批評の用語が流行した。

ー(プルーストは)無意識の再記憶の上に全芸術理論を据えると明言した。(『プルースト・印象と隠喩』保莉瑞穂 ちくま文庫)

本書の文は固く、「何のこっちゃ」と思うだろうが、中上健次の回で触れたように、記憶、コトバ以前、イメージ以上の”あわい”を、この文では「無意識の再記憶」といっているだけで、はなはだ覚束ないが、そのスキマに「理論」を据える。と、プルーストが書いている、と伝えている。
『失われたときを求めて』でよく引用される描写である「紅茶にマドレーヌを浸したとき」に想い出される記憶の叙述、という解説は、この事情を語っている。ちなみに原文は紅茶ではなく、煎じ茶らしい。

フローベールに戻ると、先行作品を読むに当たって、一般の世評ではなく、自らが作ろうとする作品に向き合うが故に

ー(文芸批評の見地からみて)二つの影像、二つの観念のあいだにある、もっとも重要な関係の知覚。存続させる状態

ここでいうスキマである。
フローベールは先行作品(G・ウルヴァル)を読み解くに当たってそう述べている。

ーまえの作品の終着点であった狂気は、あとに続く作品の出発点、いやその素材にさえなるのである。(『サント・ブーヴ』保莉の前掲書より)
ゲッツの音の(再)記憶から、長い文が引き出されるのだが、次回に。




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by ihatobo | 2014-06-25 21:54 | CDの紹介

『バード』(クリント・イーストウッド ワーナー・ブラザース 88年)その2

 チャーリー・パーカーもそうだったが、初めてその音に打たれた時は、それが向か、コトバでは浮かばなかった。
 今回88年制作の『バード』を見直すチャンスがめぐってきて、やっと、その音が私に届いた。
 届いた、というよりは、いま私はそのサウンドを初めて享受している。穏やかな世界がやってきている。

 こちらは数年以前だが、『いつか王子様が』(マイルス・デービス CBS)を、私たちの店のスタッフが持ち込んで来た。「父が聞いていた」という。
私は恐る恐る聞いてみた。
コルトレーンがいい。彼の全作品で鳴っている音が、ここで鳴っている。たくさんの事柄を想い出させてくれた。そのシーンにまつわっているコトバも。
 ー 点景人物、ほんのわずかに登場する人物などの、短い的確な描写( …)、ほんのちょっとした特徴からの連想(筒井康隆によるE・T・A・ホフマン『陽の窓』からの引用)こうした事柄がパーカーの音を聞いている私に想起される。
 こうした事態についてはマイルスもその自伝で触れている。

 『バード』の重さ、暗さ、が私というものを忘れさせ、身体はガラン洞になる。胃や腸や果てには脳もなくなる。気分がいい。音になっているのだ。
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by ihatobo | 2014-06-21 22:00

『愛と暴力の戦後とその後』(赤坂真理 講談社現代新書)

『東京プリズン』の赤坂真理が新書を書く、というので待っていたが、読むと柔らかい。
ー ただ、「象徴」であるからこそさらに不可視になりやすい。
から始まり、「日本語はどこまで私達のものか」(第2章タイトル)と終章に至るまで、コトバによる、文の把握で一貫している。
そう書くと、端折り過ぎになるが、私自身の発言や文もそうした同義反復や結語先き取りによるハグラカシを平気で日常”使用”している。(本書がそうであるというのではない)
私は、仕事場でも、家庭でも、コトバに関しては同等の距離を持っている。
上の引用も、象徴の内容が不可視になりやすい、ということだが、その不可視を、私はヒミツといっている。
それで事実が降り注ぐ日常が運営されるのか、といわれそうだが、何とか細々、密かに運営されている。
今回はその1として、最速紹介しておこうと思い、端折り過ぎたが、好感を持って読み進んでいる。
犠牲とか「自由」の字義、前回のドン詰まりからの脱出など、しんどいが「翻訳」に関する記述もあるので精進したいと考えている。
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by ihatobo | 2014-06-18 21:02 | 本の紹介

6月12日の”書き込み“

 本ブログへの”書き込み”あるいは”投稿“用のために、店内にHe+me=2というノートを置いてあります。
本来は当店の有志による文芸部の部誌He+me=2の読者の為のものでしたが、最近は外国から当店にやってくる方が多く、「ゲスト・ブック」の役割も果たしています。
 今回ビックリしたのは、そのノートに挟んであった投書?です。
2~3日以前に気づき、内容を読んで二度ビックリしました。
宛先は記されていないものの、私はパソコンを扱えないので詳しい事情を察することができないのですが、とりあえず匿名の書き込み風です。
内容をニュースにするのは憚れるのですが、概ね、35才の単身女性の男性遍歴で、胸が高鳴るものの、聞いた口が塞がらない。200字程度のその文は、丁度男性週刊誌の読者投稿欄と同じ。あるいは夕刊紙のスポット紹介ページのコラム、といった風だが、奇妙だな、と思ったくだりがあった。

男性がいう。
「子供が1歳で、妻とはセックス・レスだからさ」とコレはよく見聞する。
しかし、この単身女性は腹を立てた、という。
「旦那さんの欲望に応えて」やらないのでこんな風になる。「ヤリたいと言ったら、毎回ヤレこら」
ちょっとちょっと…である。
彼女は自分を棚に上げ、ラインで知り合った男性の女房に怒っているのである…
文字は日本語でした。念の為。
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by ihatobo | 2014-06-14 21:17 | ニューズ

『デミアン』その2 (ヘルマン・ヘッセ 岩波文庫 1919→59年)

前々回の「強いて訳せば”偶然力”」の正確はセレンディピティであった。
それが判明した日の夕刊に載った日本新聞協会による(掲載記事による私の)ハッピー・ニュースを応募して下さい、という広告のメイン・キャッチコピーが、そのセレンディピティであったのに私は驚いた。
大昔の公爵か博士が、自らの名を使った造語が、”公器”たる新聞にデカデカと使われる。この現在に、私はつくづくバカじゃ生きてゆけそうもない、と思った。
さて、今回は『カフェ古典新訳文庫』の3回目ともいえそうだが、『罪と罰』で著者が引用している、という『ヨハネの福音書』の中のラザロの死と復活に関わる記述に、思い当たるところがあり、随分以前に紹介した『デミアン』(ヘルマン・ヘッセ 1919年)についてのノートをめくった。
幾通りにも読める男子二人の交流を描いた本書について、日本語に堪能な欧州人が「二人は好き合ってるんですか?」と私に尋ねたことがある。
ナルホド、そういう物語か、とシンプルに合点するのだが、ここでもアベルとカインのイエス(神)をめぐる物語が折り込まれてあり、本ブログに通底しているヒミツ、つまり、隠されたことが暴かれる、あるいは告白される事態が訪れても、ヒミツは姿を変えてまた隠れてしまう、という物語のシリーズ?の一冊であったことが納得された。
本書の読後の一言は、「自分に戻る力の方が強い」ということであったのも想い出した。
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by ihatobo | 2014-06-11 21:24 | 本の紹介

L’ALCHIMIE Des MOdSTRES/KLO PELGAG

 彼女は自己紹介で、イメージ面でダリ、マグリット、音楽面ではドビュッシー、ジャック・ブレル、フランク・ザッパの名を挙げている。
 ケベック(カナダ)出身の作詞・曲、歌、ピアノ、ギターを操る才女。24歳。タイトルの「怪物たちの錬金術」の割には、アルバム全体はかなりタイトな仕上がり。編曲の兄・マチューの生真面目がディクションにも関わっているのではないか、と思った。
 しかし、細部では上手く遊びが生かされているために、それは背景に引いていて、詳しく聞き込めた。録音は昨年の2013年だが、今年春からヨーロッパを含む、ツアーに出掛けるという。
 カナダの“錬金術師”といえば、ダニエル・ラノアだが、彼の持っているサウンドの拡がりではなく、まさに錬金の最中、その行為にこそ意味がある!といいたげな作品。濃い。
 彼女らは、どうもネイティブ・カネティアンらしく、その上ラノアと同様仏語園で自らを音楽形成したようだ。
 タイトル曲の「怪物たちの錬金術」では、シャンソン風なフォーク・ソングである。よい。
そのフランスのことをもっと知りたい、という趣にはSORTIE(糖衣社・パロル舎発行)という雑誌があるのを最近知った。2003年には『アメリ』のサントラを担ったヤン・ティールセンやピエール・バレーへのインタビューが掲載されていて、大変参考になった。
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by ihatobo | 2014-06-07 22:25

『人のセックスを笑うな』(山崎ナオコーラ 河出文庫 04-06年)

ペンネームが洒落ているので、彼女のエッセーは読んでいたが、今回小さな偶然が起こってデビュー作である本作を読んだ。
エッセー同様、本作も明解で著者の社会を観察する目に感心した。
小説が物語よりも、時に日記や新聞の役割に比重がかかるものだとすれば、本作が伝える現在の有様は、適確だと思った。しかし、その社会に主人公のように私も「イライラ」している。
私には批判も主張もないが、その「イライラ」は日々感じている。本作に共感している、ということだろう。
だが、世間に対するのと同様、本作の物語について私はイラ立つ。
先達がくり返しいうように、「食べて、眠って、稼ぐ」それだけで世間は一人前に扱ってくれる。
物語性という面では「気が合う」「気を遣う」とか、「親切」「優しさ」といった親密な関係の描写に使われるコトバが、トンチンカンだと私は思う。
「自分が楽しければ、相手も楽しい」を信じる必要はなく、親密な関係が築かれていれば、それはコトバ以前の筈である。
何とも「くだらない」小説であるものの、それはそうやってコトバに絡め取られて崩壊してゆくヒトを、眺めている「快感」を、著者が示唆しているのかも知れない。

ともあれ、最近知ったのだが、「セレンティビティ」?というコトバがあるそうで、「強いて訳せば偶然力になる」と友人に教わった。
カナ表記が間違っているらしく、辞書にはなかったので、次回会った際に確かめようと思っている。
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by ihatobo | 2014-06-04 20:42 | 本の紹介