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『カフェ古典新訳文庫』(光文社翻訳編集部 編 09年)その2

 ジャズの地理的な進展に伴う各地域での演奏スタイルの変還を知ると、確かに、それらの”起源“は何か、という興味が、当時の担い手たちにもあったに違いない。
 ところが音楽とは異い、文芸の場合は”起源“がある。つまり、それを「古典」といっている。
 ちなみに、音楽の場合は、それを楽譜で辿ることができたのだが、読譜の能力、つまり、解釈が非常に限定的である。
 モダーン・エイジ以後の西欧音楽は、それを再現芸術として考えた。一搬的にはそれをクラシック(古典)と呼称している。
 こみ入ってしまうが、そうしたポスト・モダーン・エイジの文芸も、再現芸術といえなくはないのだが、文芸ではその解釈がそのまま新作として認められている。
 その道筋でいえば、もはやブームともいえる「古典新訳」は既に新作ともいえる筈である。
 前回扱った『小さな王子』は旧訳では『星の王子様』とタイトルされて流布していたロング・セラー本で、「古典」と呼ぶには少し躊躇するものの原典原語に素直(フラット)に従えば新訳になる、といわれれば新作である。翻訳という行為自体が以上の様な問題を抱えているので、簡単に新作(オリジナル)とはいえないが、ナチュラルという意味では新作ともいえる筈である。
 ところで、今年から「本屋大賞」に実用書のジャンルが設置されることになったが、(5/29日付新聞記事)たとえば料理本の内容はすべからく過去や他域の料理を扱っている。さて、何を以って大賞が選ばれるのだろうか。
 ということで、そうした問題自体が新しく小説になっているのが『すばる』に掲載された『国際友誼』(谷崎由依)らしい。「日本語、中国語、英語の間の奇妙でおかしいずれと、偶然の一致」(沼野充義)を描いた作品であるらしい。
 私にとっても偶然の一致であり興味を持った。



 
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by ihatobo | 2014-05-30 22:55 | 本の紹介

『カフェ古典新訳文庫』(光文社翻訳編集部 編 09年)

例年より10日程遅れて意を決して終ったヒーターをまた引っ張り出していたが、いよいよ終った。
その間、2時間くらい使ったが、今回は「秋までゆっくりお休み下さい」変な天候である。
初夏の寒さを何と呼んでいたのか、言葉が出てこない。「寒の戻り」は4月だったように記憶しているし、「梅雨寒む」はもう少し後だろう。

前回笑えた『赤ちゃん教育』の著者と、やはり仏語文の翻訳者である中条省平の対談が収録されていたので本書を読んだ。
お目当ての対談では、『小さな王子』は「徹底して孤独な大人と、徹底して孤独な子供の出合」だったという、それが私に伝わったし、冒頭の亀山郁夫による『罪と罰』(ドストエフスキー)理解もスッキリと頭に入り、私の意識もハッキリした。
私たちの店のスタッフとお客で構成されている’’文芸部”でも、最近『罪と罰』が話題になるナ、と感じていた理由も見当がついた。
「誰も本当のことを言ってくれない」は、『小さな王子』でも同じ。
亀山は、人間の苦しみや死を黙って見過ごすこと、それを「黙過」というコトバを使って本論(講演)を締めくくっている。
しかし、本書タイトルに冠された「カフェ」は、釈然としないままであった。
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by ihatobo | 2014-05-28 20:58 | 本の紹介

HE+ME=2 第19号のお知らせ

当店の機関誌『HE+ME=2』第19号が完成しました!
今回のテーマは『つまんない』です。

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by ihatobo | 2014-05-26 00:20 | ニューズ

『英語はしゃべったもん勝ち!』横森理香 /『Twitterで英語をつぶやいてみる』石原真弓

 新聞で、ある作家に対するインタビューを読んだ。
彼は職人の「言いわけがない」仕事振りを書きたい、という。
 職人は実作業が、始まる以前から、その仕事の成果が人々の生活の実際にとけ込むまでの全過程について責任を持っている、という。
 殆ど全発言について「我が意を得たり」だったが、私達の仕事は、その成果への反響が、直接的で、多種多様であるために、作家でいえば、読者の反響がその作品を作っている段階や批判/評価が、スタッフの作業に向けられる。
 例えばコーヒーの一杯を淹れる以前から、テーブルに運ぶ(納品)までの全時間にスタッフは責任を持っている。
 それは当たり前の日常的作業だが、と同時にまず、複数のメニューを一挙に作ることはできない。
 更に、その間に本やCDの問い合せや、室温の調整、電話の応対など、ある時には一挙に私たちを襲う。
 もちろん作家も作品を作っているだけではなく、このインタビューを受けているのも作家の仕事である。
 それを私は知っている。が、喫茶店のスタッフはとても忙しい。しかも、お客様が訪れてくれる限りは、延々と続くわけだから・・・

 さて、そういうことで、今日はエーゴのお客様の応対に便利なエーゴ本を、たまたま2冊紹介しておきたい。
 日常の接客にも便利なのである。つまり、早く簡単にお客様に私たちの作るメニューを案内する時に、一回エーゴに直してから、日本語で発語するのである。
 よく出喰わすお客様の問い合せで、「トイレいいですか?」がある。この場合は、アーユー・レディと考えればいい。「空いてますよ」と私たちは応えている。
 テーブルにメニューを運んだ時に「ありがとう」と最近のお客様は発話する。この場合も今度はこちら側が「どういたしまして」をいい難いのでシュア・シングと考えて、「いえ」か「はい」かにしている。
 そんな簡単フレーズが両書に満載されている。

 ある時エーゴのお客様がビール(ビァ)をもう一本(ワンモアビァ)と注文される。しかし、(冷えている)在庫がなくアウト・オブ・ストックというと、ノー(その場合は)ザッツ・ラースト・ワンと言うんだと教えてもらった。カンタンである。
 
 
 
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by ihatobo | 2014-05-24 02:37 | 本の紹介

『赤ちゃん教育』(野崎 歓 講談社文庫 05→08年)

著者は「照れ隠し」というが、本書で引き合いに出される、文芸書は、いわゆる偉人達の著作が並んでいて、大変に参考になった。
著者の主要な関心事である”育児”というよりは、我が息子との会話、コミュニケーションを、どのように扱うかを先達に学ぶというのが本書の眼目である。
ということは、当然「親バカ」の記述も散見されることにもなり、知人宅で無邪気に見せられる子供たちの日常的なビデオ画面といえないこともない。
しかし、本書は立派である。
こういう本が欲しかった、と私は思った。家庭において、父はその役割の期間、一貫して「自己弁護」を余儀なくされるからだ。
自らの「物語」は常に批判、あるいは否定される。
家庭の構成員は私(父)を置き去り「口もまわるし、頭もまわる」。
いきおい私は「黒猫のひっそりと待つ部屋に向う。翌朝容赦なく叩き起こされるその時まで」しばしの「子別れ」である。
しかし、何の偶然か、私の長女と著者の愛猫は同じ名であった…。
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by ihatobo | 2014-05-21 20:53 | 本の紹介

 『重力の都』(中上健次 新潮文庫)

 例年、GWが明けると店のガス・ヒーターをしまうのだが、この所、夕方を過ぎるとかなり肌寒い。
 しかし既に5月も下旬であるので、覚悟を決めてしまった。この寒さだが前回の一冊『重力の都』(中上健次)には驚いた。私の小説嫌いの主因である“読まず嫌い”を今回ほど反省したことはない。しかし、それにしてもこの本が仮にせよ手元に“実在”しているのが忌まわしい。寒い。
 主人公のようなヒトはいる。相方とのやり取りも知っている。そう覚悟して、私自身が引き受けない限り、この本の“実在”は消えない。例の「何もかもを忘れたが、何を忘れたいのか思い出せない」(赤塚不二夫)である。
 この夢以上、記憶未満に摑まると辛い。が、次に(数秒後であっても)摑まったら、その前回を覚えている。そして、何回か同じ事態を体験しているうちに、記憶がループを作る。そうすれば「人生に嫌なことある」レベルまで這い上がることができる。

 引き受けてしまえば・・・という訳で、次回は明るく『赤ちゃん教育』(野崎 歓・講談社文庫05→08年)を、紹介しよう。大変、面白い。
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by ihatobo | 2014-05-21 09:26

『もしもし』(ニコルソン・ベイカー 岸本佐知子訳 白水uブックス 93→96年)

 今回、E・フライアーノ『ひきしお』を、と考えていたが、同時に読んでいた”電話小説“の本書と、タイトルにひかれて買った『重力の都』(中上健次 新潮文庫 88年→92年)の三冊が、奇しくもいわゆるエロ系にも読めるので、「偶然は傲岸だ」という、フライアーノに倣いその美しさに従って、今回は紹介文とは違うフォーマットでやってみたい。
 『もしもし』はアメリカの東部寄りに住む女性と西海岸の男性の電話だから話せる赤裸々な会話(会員制の出逢いシステム)だけで出来ている。
 ”興奮“して読んでいたが、やはり1/4ぐらいで疲れがやってくる。「実用書」とみなせば参考になるかも知れないが読了していない。『ひきしお』は錯綜する事実の雨のなかで、完全な矛盾が相方の女性をメランプース(犬)と混ぜてしまう。
 しかし、物語りの背景に60年前後期のニューヨークの様子が描かれていて興味深かった。作者、エンニオ・フライアーノはその後、フェリーニの『甘い生活』(60年、音楽はニノ・ロータ)『8 1/2』にも脚本で参加している。
 さて、『重力の都』(中上健次 新潮文庫 88→92年)は、タイトルにひかれて買った(トマス・ピンチョンの「重力の虹」)のだが、本作は物語自体が人の抱えている本質的な矛盾を、固定し、物質化する、つまり、書籍として生産することが、意識的に遂行されているのが美しい。
 本書あとがきを読むとそれが分る。ヘンリー・ミラーの『南回帰線』の最終に綴られたすがすがしさを、私は感じとることができた。
 
 
 
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by ihatobo | 2014-05-16 23:01

『CHANSONS ET BALLET / フランソワーズ・サガン、ミシェル・マーニュ』

前回のロブグリエが『消しゴム』(53年)を出版した次の年、F・サガンは『悲しみよこんにちは』でデビューする。彼女は、その前後期に作家活動の他に、シャンソンの作詞やバレエ作品の発表もしており、それらの音源が今回CD2枚組で発売される。前回紹介した『覗く人』(55年)も映画化されているらしいが、『悲しみよこんにちは』もアメリカで映画化されている。
他に『ブラームスはお好き?』も映画化され、その主題歌がCD2に収められている。
ここには、バレエ作品の際に舞台で朗読されたサガン自身の声質も聞ける。そして、この舞台の演出はロジェ・ヴァディム。DVDがあれば…とも思うが、これだけでもワクワクです。
当店で売っています。ブックレット付き。良い。

ところで、1960年前後期のヨーロッパ映画は、私の世代では70年代に入ってから、TVの深夜放送で放映されていた。
私は出不精で、人の集まる映画館やコンサート、スポーツ、美術館といった場所に出掛けることが、極端に少なかった。
娯楽といえば、TVだけだった。
これらの深夜放送を、だから比較的よく観ていたのだと思う。
そのTVで、淀川長治がナビゲーターをしていた「金曜ロードショー」が始まったのはいつだったのか、彼の番組は、ハリウッドを初めとする英語圏の映画が多かったように覚えている。
というわけで、イタリア映画『ひきしお』の原作を買ってきて、次回に紹介しようと考えている。変形綺譚であるのだが…
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by ihatobo | 2014-05-14 21:02 | CDの紹介

『覗く人』その2

 ところが、次第にその記述できなかった出来事が浮かび上がってくる。
殺人事件?が起る。死体が発見されるのだ。それでも相変わらず登場人物たちはキモチを吐き出さない。哀しくないのだろうか。そして、“事実”が浮き出されてゆく。
 しかし、その“事実”が各々矛盾している。各々が、その報告者の固有の時間の中で起っているからだ。
 つまり、報告者が、嘘をついている……?
 あるいはその彼からは見えなかった……?
 そして、その出来事とは異なる理由で、「無かったことにしたい」者もいる……?
 その中でこの一部始終を見ていた?主人公がいる。
 錯統した“事実”は結局「不在証明」を軸に秩序が、取り戻されてゆくが……
 死体だけが事実として残され、「金曜日に葬儀」が行われる。死体は主人公の妹であった。
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by ihatobo | 2014-05-08 22:55

『覗くひと』(アラン・ロブグリエ 冬樹社 1955→66年)

 本ブログでは、基本的に〈 店 〉という型式の内容の書かれている新刊を紹介している。
 しかし、小説など空想された物語についても、〈 店 〉を運営する動力になるものも扱っている。
 つまり、店という普段の生活の中に滑り込みながらも、店(喫茶店)を訪れないことは一日たりともない、という人は、そう多くはないだろう。
 ま、年齢や生活圏にもよるだろうが、その多くはない人々をもてなすのには、エネルギーが必要である。
 そうした時に、小説の舞台が店であるような時に、ついこの場面は、スタッフはどう動くのだろうと読み込んでしまう。
 本書は当時 “アンチ・ロマン” と略称された小説家たちのひとり、ロブグリエの55年の作品。いわゆる写実に徹している。出来事や情景を叙事的に記述してゆく方法なので、”シネ・ロマン“ とも呼ばれた。
 私の趣味は、こうした小説に傾斜している。
 ー 主人の顔が看板の上、入り口の枠の中に現れた。
 ー 部屋のマチアに見える部分を女は離れ、数秒後、楕円形の鏡の中に姿を現す。

 「 希望 」や目がくらむ陽光、少女の肢体のカタチ、海辺…と過去の文芸作品、映画、絵画、写真などを連想させる単語が、単々と“物語”を紡いでゆく。
 しかし、記述できない出来事もあり、だが、著者は空想には踏み込まない。
 本書で、近頃短く流行した半コートがカナディエンヌ、というのを知った。
 
 
 
 
 
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by ihatobo | 2014-05-03 00:19 | 本の紹介