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椏久里の記録 (市澤秀耕、市澤美由紀 言叢社)

 時折り窓外を眺め、人々の往来の様子に見入ることがある。
 ひと頃、手を継ぐカップルが目立って多い時期があったが、ごく最近も目立つ日がある。
 女の子達の流行服の移り替わりも興味深いのだが、ある週が明けると似通ったファッションに身を包んだ娘たちが、窓下を流れてゆく。その流行を支えているのは消費者の心情だと推察されるが、その消費者"心理"が、コンビニまで波及するのが、単価百円台の"スイーツ"。
 情報を知らずにそれを食べると、意外に美味しい(新風味)のだが、暫く忘れているうちに"生産中止"となる。
 これだけの速さに注がれる作り手の情熱はどこへ吸収されていくのだろうか?
 今回は同業者の「味作り」にかける奮闘記である。
 福島県飯館村で始まったコーヒーのブレンド、焙煎工場を持つ喫茶店の20数年に渡る記録。もちろん現在も福島市内で「基本に忠実」を掲げて営業している。
 <真当>というコトバがあるが、その通りの喫茶店で、一度うかがいたい、と考えた。
 その真当の内容は本書に詳述されているが、ひとつひとつの場面が、一通に繋がっているので、ここでダイジェストはできない。
 ストレート豆だけで20種(銘柄)、ブレンドが7種とラインアップされていて、その事実だけで「すべてはコーヒーのために」が語られている。
 私の店もかつて生産拠点と連係して、果実、果実酒、栗を仕入れ、製菓、食事の提供もしていたが、作業場の狭さ、スタッフの人数など種々の事情で、現在は中断している。
 しかし、元来が非活動的である店主は、新譜、新刊を始めとするバイヤーズ・ガイドと、本書にもある、「(コーヒーを)新鮮な状態で提供する」ことを主眼に置いて来ている。アイス・コーヒーもその度にグラインド、ドリッピィングして急冷する。この効果は、氷が溶けても、コーヒー自体が生きているので、味が変ってゆくことである。(つまり溶けた水で薄まったコーヒーにはならない)
スタッフも押しつけにならないように、お客様のイメージをよく聞いて、それに沿うメニューのレシピを説明するように要求している。
 店内の内装、レイアウト、調度、室温と、やはり時代に対応した音色のある音楽をかける。それが、私の店の「おもてなし」のひとつの柱です。幅はあるが、一年365日(元旦は定休日)常に同じ時間と空間があるように心掛けている。

 私の店の事情はさておき、本書が秀れていると考えたのは「すべてはコーヒーのために」繋がっている諸作業の記録であることだ。
 原発事故の当地であり、それに伴う移転再開の経緯についても、事実が詳しく記されている。
 的ハズレでいいから、私も自分に裏付けのある事柄にはものを言ったり、行動をしようと考えた。
可能ならば本書を私の店でも販売したいと願っている。
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by ihatobo | 2013-05-29 21:17 | 本の紹介

『ふたりの証拠(アゴタ・クリストフ)』(早川epi文庫88→01年)

  彼女がデビューしたのは、86年、その日本語訳が91年で、その年、彼女は来日している。その騒動で私は興味を持ち、名を覚え、処女作『悪童日記』を読んだのだったが、印象はあいまいで、その書名だけが記憶に留められていた。
  ともあれ01年になって文庫となった同書と、本作『ふたりの証拠』には、驚かされた 。本作解説に引かれている「読後感は震駭(しんがい)の一語に尽きる」(塩野七生)を、全くその通り感ずることができた。これを機に前作をもう一度読んでみようと思った。
 「震駭」とはふるえおどろくの意味というが、その通りである。
戦争、政治、国家が、背景に設定されているものの、それは退いたり、前景にせり出したりしながら、端々しい文が進んでゆく。
 主人公リュカは、どの場面でも内面(エピソードの解釈、本音の吐露)を持ち出さず、作者もそれを補わない。リュカは記憶さえも留めない。何の色もない闇そのものを抱え、態度だけで演技してゆく。忘れたいのだ。
 「自分にあまりにも辛いこと、あまりに悲しいことがあって、しかもそれを誰にも話したくない時には、書くといい。助けになると思うよ」
 彼は何人もの人々にそれとなく助けられ、励まされ、いじ悪をされるのだが、このアドバイスがいい。
これは私に覚えがある。
 読後感は、しかし、この本自体に愛しさを感じた。
 さて、今回の新刊は文芸春秋が始めた「ジブリ文庫」の今月刊行分、『天空の城ラピュタ』 を読んだ。読んだ、というのもこのシリーズは、<シネマ・コミック>と<ジブリの教科書> の2本立てで、本書は<ジブリの~>の一冊。
 幸いにも?私は子供たちと観ることができたのだが、始まると、すぐに「映画だ」と思い、 居住いを正した。いわゆる“アニメ”ではなく映画である。
  本書はそのシーンの遂一の解説、背景資料、裏話などの“読本”である。子どもたちに「あれはこういう意味かも~」とこそこそささやいた事柄、予想の通りの展開やセリフに拳を上げた些細な想い出が本書に詰っている。
 それにしても今年の若竹の伸びは一ヶ月以上も遅れたのではなかったか。二日も三日も一日中風の吹くのが普通であっただろうか。
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by Ihatobo | 2013-05-19 22:21

『PARIS』(マルコム・マクラーレン Vougue 94年)

 カウンターのこちら側から見ていると、喫茶店を訪れるお客様の様子と、「路上」をゆき交う人々の様子は似ている。
 お客様は、席に座わり、一息ついてお茶を飲み、会話を楽しむ。しかし、店は目的地までの、あくまでも通過点。そこで、裸になって風呂に入り、ベットにもぐり込んで眠る、というわけにはいかない。そこに住み生活をしているのでもない。
 しかし、そこで生活している人々もいるから、様子が似ている、といっても、一概に一緒にはできない。
 ただ、カウンターのこちら側で見ている限りでは、通過してゆく人々、通行人であることに変わりはない。
 名も知らず、どこに住んでいる人なのかも知らされていない。
 またもう一度会いたいと願っても、それを口に出すことも失礼であるし、追ってゆくこともできない。
つまり、そういうポイントでは喫茶店は常に大切な人を失ってしまう施設なのである。

だから、「路上」をゆき交う人々と変わらない、と私は考えている、
高速道路のパーキングエリアのように、椅子とテーブル、軽い飲み物と食事、それとトイレ。基本的には、それだけで喫茶店は成り立っている。
気の向くままにそこの路地に入ってみよう。しかしその行く先はゆき止まり。しかし、慎ましく看板が出ている。
外から店内の様子を伺っても暗がりでよく分からない。今どきのように看板にメニューが掲示されているわけでもない。

それでも店の扉を押してみるのは、そこが基本的に「路上」であることを私たちが知っているからだ。内心ではラッキーなら、一息入れることもできるかも知れない、うまくすれば、コーヒーかお茶がおいしいかも知れない、そう、心地良いBGMの中でタバコが吸えるかも知れない。値段は不明だが不当なことはないだろう。
 そうやって、通り過ぎるだけなのに、その店に暫く留まる。
 そのBGMの一枚が本作だが「ジャズ・イン・パリ」は、パリ・イズ・ジャズを付け足してリフレインする。その前曲④で、マクラーレンは「午後のベットでジュリエット・グレコはマイルスとミーティング」とナレーションする。
 果たして、通りすがりの短い恋(の舞台)がパリなのか。そのパリがジャズなのか。
 ”空耳”ではPARISのRがサイレンスしていて、PASSに聞こえる。本作は他にカトリーヌ・ドヌーブ、フランソワーズ・アルディ、アミーナが参加している。
 喫茶店のBGMは、やはりジャズなのか。
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by ihatobo | 2013-05-08 10:45