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「うたかたに」高橋恭司写真展

期間:12/7~1/7
場所:イーハトーボ
内容:ウィリアム・エグルストン、ウィリアム・クライン、ナン・ゴールディン、ジャック・デリダのポートレイトをゼロックスプリントで展示。(価格 3万8千円)
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by ihatobo | 2012-11-29 23:45 | ニューズ

『マインドフルネス そしてACTへ』(熊野宏昭 星和書店 2011年)

 秋が短く、あっという間に冬が来た。
 先週までは、晴れた午後は汗が出る程であったのに、夕方になると「秋の陽はツルベ落し」と共に急に冷え込む。
 今月はそれに連れていつもより冊数が多く、若い社会科学系の学者の対談、前回から続いている女性作家の作品、エッセー集を二冊、それと、当店の自主本シリーズの第一回目(87年)に、付き合ってくれた心療内科医の熊野宏昭『マインドフルネス そしてACTへ』(星和書店 2011年)などを、熟読、速読、読み散らした。
 『頼れない国でどう生きようか』(加藤嘉一/古市憲寿 PHP新書)は、相手(対象)や場合(場所)によって使うコトバとその文脈(背景、意味)がズレてくることが証拠立てられていて、そのことを念頭に楽しく読んだ。
 前に少し触れた『街場の文体論』(内田樹 ミシマ社)が強調するように、いま、その場に立って(当事者)先々の人生設計を考える、縮めてしまえば、この恋、この職場は、私にとって「損か得か」考えることの延長(時間的な経過)にはパラドクスが待っている、ということだ。
 その分岐点で、どちらを選んだとしても、その経過の中で当事者は、「損か得か」を常に検証している。つまり、それは"選んだ"ことにならない。何故ならいわゆる"迷っている"のではなく、自分の外へ、「自分から出られる」体験を回避してしまっているからだ。
 他人、他言語、いまと違う環境へ「意欲」を持って踏み込むことで、そのパラドクスを回避する。
 冷静で、客観的に記述すれば、その自分の状態(選んだ)を役割分担すればいい。その主体を自分ではなく「分人」(平野啓一郎 講談社現代新書)というらしい。
 さて、熊野によると、その冷静で客観的な視点(主体)が「気づき」である。ブッダその人の言葉の日本語訳である。ナーンだ。というところだが、私たち日本語グループはこの「気」を多用する。
「気が利かない」「気を使う」…果ては「空気」が読めない。
「空」も仏教用語だから、ブッダが知ったら目を回わすであろう。
 と、いうように私たちの使うコトバは奇妙である。そのコトバが分るから「不本意」であったり、「通じない」かったりする。
 熊野は「自己」の記述として、「プロセスとしての自己」(感覚が変容してゆく)「概念としての自己」(コトバ、意識による把握)と「場としての自己」の三層の自己を想定して記述(説明)している。
 要は、相手や場面によって変容してしまう自分を保証する自分もいる、ということに「気づ」けば、おおかたの場面は"リア充"で乗りきれる、ということだ。
 他に『戦う区長』(保坂展人 集英社新書)『伝奇集』(J.L.ボルヘス 岩波文庫 1944→2012年)を読んだ。
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by ihatobo | 2012-11-28 14:33 | 本の紹介

『生きて行く私』(宇野千代 中公文庫 86年→2011年)

 ある朝を境に水が冷たくなり、暫くすると夜気が「夏が終る」と告げる。
 この店は10月が開店記念で、今年で35年になる。30年になるころ、本ブログでそれまでの期間に渡って、ラウンドにある4つの照明(電球)が一度も切れなかったことを報告したが、この店は全般に物耐ちが良い。
 冷房が苦手な私は、開店以来の夏を節電で乗り切ってきたが、最近の節電の風潮と期せずして同調することになった。それどころか私の人生そのものも省エネで、盛り上がりに欠けている。
 さて、その私が“モダニスト”の宇野千代『生きて行く私』を読んでゲンナリしたのはいうまでもない。
 彼女がオンナであるのと併せて、「もったいない」が最初の感想(概)である。
 何しろ生涯に13軒もの自宅を自分の力で建て、かつ捨てたという。その一割でもいいから大切に末永く共に暮らしたら良かろうに、とセコイ私は思うのだが、そうした彼女の演じたエピソードが、この人はこの人だ、といって片付けられないある勢いを持っている。
 音楽用語ならばグルーブしている。それに調子づいて、大変楽しく読んだ。
 他に勉強になった事柄もあり、第二次世界大戦をはさむこの時期の“文化人”たちの素顔も垣間見えて興味深かった。
 私も、偶然と直感を横目で見ながら、「盛り上がりに欠ける人生」を送ってきたが、つまり、そのポイントは宇野に共感できる。しかし、その偶然と直感を頼りに調子に乗ることは、許されない。それ程アテにならない物はないからだ。
 彼女こそが「いま、ここ」を生きた人である、といえばその通りだが、その彼女を知る人々からすれば、ひと連らなりの思い出として残っているはずである。
 その彼女を知る人々の記憶の集積を、想像しながらこの「自伝」を彼女は綴ったのだろうか。
 本書が宇野千代の私的な回想記で済まされない、と私が考えるのも、その想像による物語、つまり、もうひとつの小説(フィクション)であるからであるだろう。
 しかし、「男たちへの憧憬のすべてが私の人生を動かしてきた」と彼女は述べているが、と同時に「やっと今になって…世間普通の判断」をするようになった、という錯綜した波乱万丈の人生を送ったものだと今度は私の方が感概に浸る。哀しい。
 彼女の父の思い出のくだりでは、社会適応はあるものの“発達障害”を被って、それと斗っていた、とも読める。
 宇野にはコトバによる物語が必要だったのだ、と私は思った。好著である。
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by ihatobo | 2012-11-11 16:55

He+Me=2 No.15 "華やぎ"

最新号のHe+Me=2(No.15)"華やぎ" 出来ました!
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by ihatobo | 2012-11-06 00:08 | ニューズ

『無限の網』草間彌生 (新潮文庫 4月)

店の日常のなかで、この場、この一時が世界や「永遠」に
連らなっている、ひとつの環だと実感することがある。
それは確実な経験で、その場に居合せた者がその体験を共有している。
しかし、その”事件”を後になって書き印すことができない…
 その様な”事件”を仕掛けて、事実としての絵画作品、インスタレーション、
ハプニングを同時進行で記録する。
 本書は、それらの記録の集積であり、当事者、
草間の回想による解説、自伝である。
 彼女はいわゆる近代的な個人として、説明可能な生活を
送って来たわけではない。
そう私がいうのも、一般的な範囲での対人関係から
常に彼女は逃亡しているからだ。
 精神医学では”離人症”と呼ばれる疾患を彼女は背負っている。
一般的な意味での生命感覚、現実感覚がない。彼女が述べるように内/外のない
「奇妙に機械化された環境」を彼女は生きている。
 たとえば、その為に何か(作品や身近の事物)を残しておかなければならない、
のである。それが記録の集積であり、
自分を「とっておき魔」を呼ぶ由縁になっている。
 私自身はそれを「ダラシナイ」といって、
中々店内の整理整頓をしない言い訳にしている。

 次回は更にその上をゆく宇野千代の自伝を紹介しようと考えている。
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by ihatobo | 2012-11-02 02:07 | 本の紹介