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『ビブリア古書堂の事件帖』 三上 延

 三上延の『ビブリア古書堂の事件帖』(メディアワークス文庫)の
第3巻が出たので書店に走った。
一週間経っていなかったが既に再版が掛かっていた!
 内容、手法とも従前で興奮しつつページを追った。
更に今回は宮澤賢治の『春と修羅』の初版をめぐる事件という設定である。
 古書(初版)をめぐる取沙汰に関して、そういう事柄があるのは、
アナログ(レコード)と同様で、私も関心はあるのだが、
実際にその事柄の当事者になりたい、と考えた事はない。
(それでも開いた口が塞がらない高額で古書やアナログを売ったことはある。)
 しかし、この作家の語り方には好感が持てる。
いわゆる、〝探偵物″である。ミステリアスでもある。
 ところで、前回のケータイをめぐるエピソードには続きがあって、
私はメールのやり取りをゲームとして捉えていて、
そのゲームを楽しむ気にはなれない、のだ。
 余りにも規模が大きく、一般化したゲームで、いつでも、誰でも
しかも安価で参加できるのだが、それが私のいうゲームである以上、
ルールがある筈で、それを私が嫌っている。
 そのルールを、一般にコミュニケーションの道具として規定した上で、
「ご自由に」と見せて束縄に転化している。
それが嫌なのだ。
 しかし、再び「変な世の中になった」と思う。
もっと別のミステリアスが好みである。
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by ihatobo | 2012-10-14 18:58 | 本の紹介

『街場の文体論』 内田樹(ミシマ社 8月発行)

 最近やっとケータイを持った(笑)。まず家族との連絡にお金がかからない。それが理由だったが、「変な世の中になった」と思う。
 特に利便性が上がった、とは思えない。
 ところがメールである。ここ一か月ぐらいでメールの送受信が出来るようになった。
 それが問題(トラブル)である。
 家族とのメールといえども、それは「成文」化せねばならない。間やニュアンスのことでもあるが、受信した最初の画面では全体の文字量が分らない。その標示も機能する操作もあるらしいが、手紙ならば文字数と便箋の枚数だけでわかる。うれしい。
 このポイントは重要で便箋の束ならば、筆勢などによってその手紙を読み終わった自分、(内田樹)が予感できる。
 その予感によって手紙の到着の前後、長い場合は一年以上の重みや、すぐここで書くことの出来ない記憶やコトバが、ひと連なりになってシックリと私に届く。
 その相手が外国にいたり、もっと数十年振りの音信だったりしても、例えばその相手との間で語り合ったことのないコトバまでもがその時に届く。
 そういう言外の“勢力”のようなものが筆勢や行間、束の重みによって私にまず届く。
 ケータイにはそれがない。何故なら家族だけではなく、実感として無数の人々と交信が可能なために、その両面から歴史や地理(距離)が消失して、もっと一般的な、ハダカの文字列に還元されてしまうからだ。
 家族とのメールの交換に話を戻そう。
 家族のひとりひとりとは、各々に歴史があり、日々のトピックスも共有されている。だから大半はその話題についての他愛のないやりとりになる。
 しかし、それが大変難しい、というかビミョーである。
 そのやり取りは言外の“勢力”によって保障されているから、いつ知れずコトバのやり取りが当の保障へ食い込んでしまうことがある。
 それは仕事上のやり取りでも起こっていて、単語を間違えたり、言わなくていいことをコトバにしてしまう。
 漢字、常套句、各種の記号、絵文字は伝えたいコトバをアレンジしてしまう。
 私自身はやはりケータイは単純に移動電話であり相手と話すためのものだと思う。文は勝手に独り歩きするのだし、あらぬ誤解を生成してしまう。「話せば分る」と言って撃たれた奴もいるけれど。
 
 ところで、この本でクリシェ(常套句)が印刷(活字拾い)用語だったのを初めて知った。本書は文に関する実用書ともいえそうである。
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by ihatobo | 2012-10-07 12:14