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『私たちは今、どこにいるのか―小熊英二 時評集』(毎日新聞)

 本書は1997→11年の期間に小熊英二が受けたインタビュー、依頼されたレクチャーの他、時評、書評を集めている。
 彼の発言は常に短くシャープだが、それを支える膨大な資料踏査に、毎回舌を巻く。
 この期間のいわゆる“時事問題”に対する彼の態度、言説には全くブレがない。
 歴史家である彼は社会の一般常識、前提、枠組みをバラバラにした上で、公平な常識を提出する。その彼の態度は一貫している。
 その「いま歴史教育に何が求められているか」は、現場の教員たちに向けた講演を収録したもので、しかしあたかも講談である。
 もちろん、本来の講談は歴史物語であるから、「ストーリー性」があり、彼はそのストーリーの成立する前提を問題にしているのだが、実に白熱している。面白い。
 こうしたシャープさに触れたことが幸せであった。
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by ihatobo | 2011-04-23 08:48

『ドストエフスキーと父親殺し/不気味なもの』

『不気味な笑い/J・L・ジリボン』はベルクソンの『笑い』の解説本だが、そこで比較分析されたのがフロイトの『不気味なもの』だった。今回その新訳が出たので読んだ。
 この論考は“精神分析”の知見を使った物語りの分析でもあり、私の関心事である“知る”と“分る”についてたくさんのヒントをくれた。
 というのも店にやってきた新人スタッフの研修に際して、どこかの場面で私が指示を出し、彼は「はい、分りました」と応じる。
 ところが同等の場面がやってきて、また私が同じ指示を出さなければならなくなる場合がある。
「はい、分りました、と言っただろう」
「すみません」
 ということがよく起る。
 つまり、同じ指摘に応じて「知っています」が返ってくると、こちらは伝わっていることが確認できる。
 しかし、そのカエシがくることは珍しい。
 自分がコドモの頃に親に繰り返し同じことを指示されて「分ってる。うるさいなァ」と応じたことを思い出す。
 こうしたある技術の伝達につきもののトラブルを私は何とかしたいのだ。
 さて、本論考は、『不気味な笑い』の頃で触れたように“存在”と“生命”の位置関係の内訳を辿ると共に、地震のように私たちがすでに知っている事態が現実に姿を現すことが「不気味」であることを論理的に記述している。
 本書は他に「ドストエフスキーと父親殺し」を含む1913年から28年までのフロイトの論文を収録している。
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by ihatobo | 2011-04-10 18:02