<   2010年 06月 ( 3 )   > この月の画像一覧

SCRIPTA

 店のお客様から紀伊国屋書店のPR誌?『SCRIPTA』を貰った。「読みますか?」といってスタッフが受け取ったという。
 そのお客様は既に7~8年の間、店を使ってくれているのだが、私とは挨拶の他会話することはなかった。
 最近になって彼女の仕事を知り、一貫して「好き」だという落語、講談などのイベントのチラシを「置かせて下さい」ということを通して交流が少し始まっていた。
 その『SCRIPTA』の15号に喫茶店にも関係のある連載がありこの小冊子に興味を持ったが、執筆者をみると殆どが何冊かを読んだことのある名ばかりである。
 その「加速するファッション・フード/畑中三応子」は参考文献だけを眺めて未読。他に斉藤美奈子、池内紀に交じって上野千鶴子が「ニッポンのミソジニー」という連載を持っており興味深く読んだ。ミソジニーは女性嫌悪と訳される心理的な基質で、対人関係の障害にもそれは及ぶ場合がある。
 彼女はそれをイヴ・セジウィックの用語を使いながらホモソーシャリティ(男性同士の連帯、つまり男社会)の担い手である男性が「小心で脆弱な“男らしさ”のアイデンティティの所有者である」ことがミソジニーを実践することの内訳であるのではないか、説く。
 全くその通りだと私は考えたが“正常”な私にとってみれば、そんなに責めなくても…という卑怯な読後感を持ったのも事実である。
 どちらにも軸を乗せず公平な仕事場を作ろう、と改めて気を引き締めた。
[PR]

by ihatobo | 2010-06-13 17:11 | ある日

初夏

 天候が不順のせいなのか、自宅の最寄駅に例年巣を造っていたツバメが、五月が終わってもとうとう帰って来なかった。
 桜から桃へ移る頃から、我が家の猫たちはトカゲ、蛇から始まり、スズメ、コゲラ、鳩までを獲って家へ運び込む。こちらは例年通りだった。
 先日は、子供たちも揃いさあ朝食という時に、一番遅れて食卓についた次女が、ウォーともホギャーとも叫んで立ち上がった。何か覚えていられないような事柄をわめいたあと、彼女の指す食卓下を見ると、内臓のないネズミがこと切れている。
 パンをかじっていた私は、それを見て吐き気をもよおしたが、顔を上げその一瞬の場面を認識すると、自分に「役が回って」きていることが分った。不思議なもので誰に教えられたわけでもなく、その場の当事者の誰からも指図されるわけでもないのに、その一瞬の場面では各々に“役”が割り振られる。この場面では私の出番である。
 私はチリ取りと帚を持ってその亡骸を掬ってレジ袋へ滑らせた。またかすかに吐き気がしたが、その時は哀しさの方が勝った。
 『食べる』(村瀬学、洋泉社)の新聞評を見ていたところだったので、それを読んでみようと心に決めた。
 ところで前回の『不気味な笑い』(J・L・ジリボン)のいう不気味ノ笑いが、今朝図らずも私の心象風景となって現われ少し驚いている。
 というのも内臓をえぐり取られたネズミは紛れもなく「不気味」であり、それを処理する私のコトバは「グログロだねー」といいながら「笑って」いたのである。
 ジリボンが扱ったのは“存在”であるのだが、この場合は「生命」である。それらはどのように“対称”しているのだろうか?
[PR]

by ihatobo | 2010-06-06 21:39 | 本の紹介

『不気味な笑い』(ジャン=リュック・ジリボン 原 章二訳 白水社)

 気になっていたベルクソンの『笑い』(38年)の関連本『不気味な笑い』(ジャン=リュック・ジリボン 09→10年 白水社)が出たので早速読んだ。
 丁度『やすらい花』を出した古井由吉へのインタビューを読んでいて、そこに思い当る発言があり、ジリボンを読み終わるとこの本との共通の認識が読み取れた。
 古井は「人は自分のことに関してすら、境目はずいぶんあやしいんではないですか」と語り、「知らないはずのことを実は知っている」し、「端的にいえば、自分の生まれる前のことでも、知っていることがある」という。
 古井はその締めくくりで「文学というのは、しょせんは声なのかも知れませんね」という。
 ジリボンによれば、この古井の発言は“無意識”の内容を述べている、ということになる。
 本書はその“無意識”の発見者、フロイトの『不気味なもの』(19年)と『笑い』との類似/差異を扱って人が存在する様態の内訳を辿っている。
 しかも、複雑怪奇な「精神分析」とも、抽象・難解な「哲学」とも異なる「魅惑的な不思議=笑い」にドボン(笑)と落ち込んで考えを巡らせた著者の論考になっている。
 訳者、原章二が記すように「哲学」の世界に対する位置が私にもよく分り、その一文が本ブログのテーマである喫茶店を記述するのに都合がよかった。

 −その問いの開く領域を探索するのに言語が適していないことを示している。そしてそれは少しも驚くべきことではない。

その問いとは「枠は、いったい何を囲うのだろうか?枠のなかには何があるのか?枠のなかにあるものが、枠を撹乱したり宙づりにするのではないだろうか」というものなのだが、この枠を<喫茶店>に置き換えるならば、私にはこの問答が一字一句違うことなく分る。
 つまり、本書はその枠のなかにあるもの、存在や意識活動の全般を「コンパクト」に記述することに見事成功している。
 喫茶店のなかで起こることも「笑い」や「不気味なもの」であり、それらが喫茶店という枠をその度ごとに壊す。
 初心者に禅師が問い掛ける公案である「父母未生の生」「隻手音声」の引用もあり私はそこからこの本に落ち込んだのだが、この公案もここでいう枠である。
 前者は自分を産んだ(事実)両親の産まれる以前の自分(の生)とは何か、という頭が真白になる問いであり、隻手は片手のことで、片手の拍手の音はどんな音か、という問いである。
 つまり枠でありながら「笑い」であり「不気味」でもあり…という同語反復、論点先取を何とか上手に辿っている。
[PR]

by ihatobo | 2010-06-02 01:49 | 本の紹介