<   2010年 04月 ( 4 )   > この月の画像一覧

『HE+ME=2』8号できました

『HE+ME=2』8号完成しました。

テーマは「不滅」。
HE+ME=2からの、前号のテーマ「HER+ME=2(破滅)」、
そして今号の「WHO MET YOU?」なのです。
サァー行ってみよー!!
a0107688_4581068.jpg















執筆者一覧:今沢裕、大石亮子、大橋慶子、垣内克彦、加藤賢策、英千春、花城竜三、福山源、プルサーマル・フジコ、ヘレン・フォーグト、ポールM本、安井直、山田太郎、米澤伸八

現時点では、イーハトーボ店頭のみでの販売です。
他の書店などには順次卸してゆく予定!
[PR]

by ihatobo | 2010-04-22 05:06 | ニューズ

「花」滝廉太郎(1900年)

 噂をきいてそのアルバムを手に入れてプレーヤーにかけてみる。その設定で暫くきいているうちに「イケナイ」のコトバが浮ぶことがある。そう度々あることではないが、その初めはさてどのアルバムだったのかを辿ると、イシキは曖昧な霧の奥への迷い込んでしまう…
 そうしたアルバムの一枚がオィゲン・キケロの『ロココ・ジャズ』(MPS MP358-315 1965年)である。そのアルバムはバッハ、モーツァルトの曲のテーマを“コード進行”を使ってジャズにする、という、それ以前のジャック・ルーシェらによるフォーマットを踏んだ作品だが、そのどこに「イケナイ」を感じるのだろうか。
 そうした事柄を思い出したのは72年の日本コロンビア制作によるオィゲン・キケロの『マイ・リリックス』(デシネVSCD9372)が再発されるという知らせが郵送されてきたからだ。
 プロダクション・デシネの土本さんは、レーベル・ミュージシャン、ヨハン・シュッツの都内での“レコ発”ライブのために神戸から上京し、偶然私たちの店へやってきた。
 小一時間お茶を飲んだあと帰り際に予定外の“飛び込み”エーギョー会話が始まり、同レーベルのカタログとはそこで出会った。
 私たちの店にはこの手の“持ち込み”が多い。この情報過多の時代に当事者の想定、設定以外の“飛び込み”“持ち込み”がポツポツと起こる。そのことに私たちは元気づけられている。
 そのヨハン・シュッツの『パッション』(PDCD009 07年)は発売当初、お客様が当店に“持ち込み”その内容を既に私は知っていた。「マイケル・フランクスだよねー」というのが彼と一致したコトバだった。
 さて、当の『マイ・リリックス』だが、当初きいた時の印象とは少し異っていて、私の耳の記憶が組み変わったのか現今の“ジャズ”になっている。
 この店は開店以来新譜、新刊を追い続けているが、本作品とは奇妙なめぐり合せ、時間の順番が入れ替わった“再会”である。
 ワァッツ・ウォーラーの曲に寄り添った「花」(滝廉太郎 1900年)がいまを感じさせる。
[PR]

by ihatobo | 2010-04-21 23:59 | CDの紹介

2010年 春

 店の会話(仕事)は過酷なほどに忙しい。
 先週ドイツまで出掛けてゆく前野健太と、現地にいる店のスタッフや友人との会合を調整していた。彼は例の『ライブ・テープ』上映の旗振りとして呼ばれ、独語の歌詞を覚えたりMCの案を練ったり楽しそうであった。折しも『アルプスの少女ハイジ』(ヨハンナ・スピリ 1880年)に盗作(派及)騒ぎが持ち上がり、『都会に出てくると色々大変だし」みたいなMCにしたらどうだろうーと無責任な話をした。
 その場面で、ボブ・ディランを観てきた彼は「いやー、カッコ良かったス」を連発していた。彼のいうポイントが私には思い当り、自分でディランを観ているような気持ちになって得をした。
 仕事をしているディラン、同じように歌うたっている前野を撮った『ライブ・テープ』、私には全く同じである。
 同様に仕事してるなーと、私が感じ元気づけられたのが今月発売された『文学界』の小熊英二と高橋源一郎の対談だった。
 互いの持ち駒(言語資源)の違いを認めながら「物語」(ストーリー/ヒストリー)をめぐって真摯に会話する文面は、高橋のいう「フェアネス」が静かに主張されていて気持ちよい。
[PR]

by ihatobo | 2010-04-21 23:03 | ある日

セシル・テイラー:カフェ・モンマルトル あとがき

「解説」は「すでに出来上がっているある秩序…誰もが承知しているその全体図のなかに作品を位置づけ収める作業である」のだが、本ライナー・ノーツは意図してその作業に重心を乗せていない。
 というのも、喫茶店という装置は、確かにお茶を飲んでひと息つくためのものだが、その装置自体がある主張なり、表現なりをしている。最近一般的に使われるようになったインスタレーションがこの喫茶店を説明するのに都合がいい。
 そして、その装置を動かしているのはその時のスタッフひとりひとりであり、更に、その装置を機能させようと、各スタッフが作業を粉すうちに、本ライナー・ノーツのいう「主体」が形成されているである。
 世間で“強要”される“モチベーションを持て”という問題がこの「主体」の生成に関わっている。
 この喫茶店という装置の内訳を記述する意図を持って本ブログを始めたのだが、このセシルの演奏に関する文もその文脈に沿っている。
 つまり、普段私たちが普通にイメージしている喫茶店というものがこの文でいう「形式」である。しかしそれだけではこの店は機能しない。朝掃除をし、買い出し、下準備が終ったとしてもまだ機能はしていない。
 そこへお客様が不意に現われ初めて喫茶店となる。ボンヤリとイメージしていた喫茶店という「形式」が、その時のスタッフによって実際の場面が采配されることで、たち現われる。
 私たちの店は、スタッフ全員を束ねるスローガンがない。その代わりにメニューを厳密に作ること。そのレシピの「解説」が“接客”である。それ以外は業務外である。
 段取り、仕切りと訳されるマニュアル、プラクティカル・ワークは各自の裁量に任せられている。
 そしてその“モチベーション”をそのコトバでは問わない。作業を続けているうちにそれ(主体)は形成されるようになっている。
 こうした問題意識を持っているセシルにとってのピアノ(装置)と、そのバンドを運営している三人のモチベーションを何かと「解説」しようとしたのが本ライナー・ノーツである。
 冒頭の「解説」の定義は『英国の近代文学/吉田健一』(1964→98年岩波文庫)の解説者川本皓嗣によっている。
[PR]

by ihatobo | 2010-04-10 13:01 | どちらかといえば、新譜案内