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セシル・テイラー:カフェ・モンマルトル

 セシルは本年81歳。NYに生れふたつの学校で音楽を学び、56年にトランジション・レーベルでデビュー作を発表(この年サン・ラも同レーベルで作品を発表)、翌年スティーヴ・レイシーを含むカルテットでニューポート・ジャズ祭に出演し、音楽家としての基盤を築く。同レーベルのプロデューサーは後にボブ・ディランに電気ギターを持たせ、同祭に出演させ物議をかもし、翌67年にはヴェルヴェット・アンダーグラウンドのデビュー作品を手掛けたトム・ウィルソンである。

さて本アルバムに収められた演奏の「解説」を試みよう。

(予備知識、聴取を用意した)あなたが、そのクラブに入って演奏が始まると、その先入観(印象)は完璧に混乱し始める。

 英フォンタナ盤のライナー・ノーツ(エリック・ウィードマン)はそう記してこの時のセシル・テイラー・トリオの演奏が、そこに居合わせた人々に与えた衝撃を伝えている。
私が観たステージ(73年、ドラムはアンドリュー・シリル)を想いながらこの報告を読んでゆくと、その62年の演奏を目の当たりにしている“錯覚”がいま現在の私に訪れる。その“錯覚”が導き出すのはノンビリした懐旧ではなく、ハッキリと甦える“画像”である。その“画像”はセシルの演奏と実は同等なのである。
 つまり、“内省”的な記憶や経験として計れるそれは類ではなく、生物学用語であったフォトジェニック(発光性)であり、私の経歴の中のどの出来事とも関連のない孤独な光景、詩的な極めて短い、それはある瞬間である。演奏(音)に立ち会って光景(波動)が残される。どういうことだろうか。その“画像”は確実で、漂っているのでも、ブレているわけでもない。曖昧だが小さくプルプルとうごめいている。

 彼を紹介する文にはピアニスト、詩人!の肩書と、演奏の特徴として「極端な活気、身体的なアプローチ、即興による複雑なサウンド、頻度の高い振動 / 全音程、入り組んだポリリズム」が列記されている。
 それは全くその通りだと私も考えるが、その実際を見渡すにはやはり演奏を聴くしか手立てはない。しかし、この五つを全部やるのはシンドイ。音楽にならない筈だからである。
 
 「頻度の高い振動 / 全音程」というのはトーン・クラスターという技術の「作用」として現れる音群のことで、ピアノの音色さえも消えてしまう程の全周波数に渡る音の群れが鳴る。ピアノに限ったことではないが、ひとつのキーを押しただけでも、その音の倍音と呼ばれる周波数二倍の音が同時に鳴っている。
困ったものなのだ・・・。

彼は腕を激しく動かしながら、頭と上半身は前後に揺らしている。彼の手はものすごい勢いで鍵盤を駆け巡り、そのあまりの速さは眼で追い切れない程だ。
エリックはそう続ける。

 それでも単純な想い出の中の彼は、その速さにもかかわらず実にエレガントである。
「身体的なアプローチ」とは、だから表層として構築された、ピアノに対する彼の「主体」が形成されていることを指し示している。
 ここで文脈を換えよう。そのシンドイ、困難でもある演奏を操る彼の「主体」はタフ(呑気)なのだ。その呑気な彼が他の何ものとも交換できないある音楽的な「価値」を作り出している。しかし、それはいわばハダカの「価値」であって「意味」はもちろん彼にとってはない…。

そうしてリズムは存在と存在時間であり、内容は色彩の心的、肉体的な感応を具体化するための時間量time quantityを提示する。

 この文は66年の『ユニット・ストラクテュア』blue note BST84237のライナーにセシル自身が書き記した“解説”の一部である。

 このリズムに関する“解説”によって、では彼の創り出した「価値」は交換可能になるだろうか。もちろん少なくとも私はその「価値」を認めチケットを買い、働く筈だった時間と引き換えにそこへ出かけて行った。それは「価値」の交換である。「価値」はそれに対する共通する認識があれば「交換」することができ、そこに「意味」が追い着く。
 それはさておき、セシルの作品に関する「解説」や紹介文には「難解」の単語が頻出する。しかし、その「難解」は旧来の音楽理論で説明するには複雑すぎる。という意味で、このアルバムに収められた作品も美しいの一言に尽る。説明の文脈をどんどん引き継いでゆけば、その楽曲を分析 / 記譜するなりレコーディングするなりして、あとはご自分で演奏してください、ということになる。だからたとえセシルの作品を完璧に把握し、「解説」でき、更に演奏できたとしても、やはり「価値」はあるが、あまり「意味」はない。
 彼の作品に限らず、芸術一般に対するその享受者は、自分の行為に「意味」を持ちたがる。それはあまり「健康」ではない。享受、つまり楽しかったらそれでいいはずである。
とはいえこの文は「難解」である(笑)
 しかし今度の対象は文である。そうであれば“解読”できる筈である。だが詩人でもある彼のこの“解説”は、つまり詩的散文なのだ。かなり厄介なこれは文である。

詩は無限定の感情を掻き立てるイメージを提供するのであって、その目的(無限の快楽、美)のためには音楽が不可欠である。(「某氏への手紙」『ポォ評論集』八木俊雄訳 岩波文庫1931→2009年所収)

 これはエドガー・アラン・ポォの詩論である。ただここでポォが記した「音楽」は「拍子」「リズム」「押韻」の付記があるのだが、コレは近い。
 彼は更に別の箇所で「最も魅惑的な詩のムード(様式)である音楽によって、涙を流し、ついには声に出して泣く」のは「詩をとおして、音楽をとおして、われわれが一瞬あいまいに把握できる、かの聖なる歓喜を、あますところなく、今この地上において、ただちに、かつ永遠に捉えることができないことに対する、腹立たしい、耐えがたい悲しみの故なのである」と続ける。

 ポォの求めているイメージはセシル・テイラーの速さを持っていないだろうか。この詩に対する、音楽に対する彼のもどかしさは、私がセシルの演奏から受けた衝撃とそれを「解説」する時のもどかしさに似ている。
私はそれを「美しいの一言」に尽きるとお気軽に前記したが、その内訳がこのポォの長い“嘆き”である。

「リズムは存在と存在時間」であるとはどういう状態なのだろうか。
この文は音楽という型式が機能を始める際に起こるリズムに関するセシルの認識を、指し示すポイントである。ポォが音楽を「詩の最も魅惑的なモード(様式)」と呼ぶのもこの音楽の「作用」「効果」の内訳を彼が既に知っているからだ。詩という形式(目に見えない)が実際に動き始めると、音楽というモード(様式・目に見え、聞こえる)が伴走を始める。

 作品は実際のリニアな時間の外に出ている。それを“美”(空間)といったり“永遠”(時間)といったりして人々は享受する。しかし、音楽はその実際の時間を問題にしながら進行してゆく。
とりわけセシルのユニットの当事者は忙しい。過酷な速さを要請されている。セロニアス・モンクの「難解」曲との共振を感じさせる「コール」でのジミーを追ってゆくとその事情が分かり易い。
彼は初音を少し長く吹いてラインを作り始めるのだが、すぐに「存在と存在時間」としての“リズム”に寸断され、音程感、音圧、沈黙(間)というよりは消失を蒙りながら、彼の領域をユニットに開け渡してゆく。
 彼のラインだけを取り出せば、デコボコであり、領域の幅は広がったり狭まったりしているのが分る。だがそれ以上に“リズム”が姿を見せてそれ自体が演奏されている事に衝撃を受ける。
セシルの指の返しは異常に速い。その技術が音から響きを奪い、それを音程感のないパルス(振動)に変える。音は凝縮や圧縮ではなく丁度鹿の群れが移動しているように、抜きつ抜かれつしながら群れの全体は断片化し、分断され、膨らみ、かと見ると一気に縮まる。そうして彼のいう“リズム”が実在する量感を持ち演奏は発熱する程のアクテュアリティを発散する。これが“光景”として私に残される。
 それは「自然」がそこへ転写されているのであり、「健康」なことだと私は思う。
 
 1989年、セシルが来日した際のレクチャーに、私は雑誌記者として出掛けていったが、彼の話は、やはり通訳されていたにしても、すぐには理解し難かった。「山」や「海」があり、「波が寄せては返す」「うねり」とその取材時のノートには記されている。ビート?という私のメモがあるそのノートの単語は、いまだに私の中で文脈を持ち得ない。
 偶然や直感に帰すことのできない型式を認識することが、その成果として、「自然」が彼の「主体」と重なる、ということなのだろうか。


2010年4月17日発売
『セシル・テイラー、カフェ、モンマルトル』ライナーノーツ
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by ihatobo | 2010-03-19 14:53 | どちらかといえば、新譜案内