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浅川マキ追悼

先月17日浅川マキさんが亡った。名古屋のジャズイン・ラブリーでの仕事のために宿泊していた部屋で多分、ひとり死んだ。主催の責任者が当日、予定されていた時刻に現われない彼女に連絡を取って発見されたという。(ラブリーに私の知人が勤めている)
彼女は“世間知らず”の私のアイドルだった。当時勤めていた雑誌で、私は小さなライブ評を書き、自分でも忘れていた頃下北沢の店でたまたま彼女と逢い、何時間も話をした。
「あなたの言わんとするところは分るの、でもね」と彼女の話は長く続いた。恐縮はしたが相変わらず“世間知らず”の私はボーッと聞いていた。だが、その中に私の私淑する編集者の名が出て、その当時での昔話をして楽しく別れた。
その後、店に時折彼女から電話がかかってくるようになり、身辺の私事について彼女はやはり長く喋り続けるのだった。
しかし、何分仕事場の電話であり途中お客様の入退店があり、注文のメニューを造る間も彼女はそのまま電話を切らずに待つのでそれには閉口した。そのような事柄をまた随分後になってから件の編集者に告げると「その程度。」の一言であった。彼は彼女との電話は5〜6時間はフツーとその時言った。
その後久方振りに初心を取り戻したマキさんが「会心」のアルバムを造り、そのレビューを事情を知る編集者から依頼され私は書いた。
それからまたしばらく経ち、その会心作に参加したトランぺッターが店に現われ私の仕事についてアレコレ問い正した。彼とはそれより十年以前に店のスタッフであった川又君(彼はそのトランぺッター近藤等則の生徒であった)の紹介により顔は見知っており、彼のライブにも度々出掛けマキさん同様の間柄ではあったが、互いに私事に関する話題はなかった。
女性という存在はそのような(私事を話したがる)ものなのだろう。私の書いたレビューもその事柄に触れている。無責任なものいいだが、この“説明可能”な世界にシンガーでありミュージシャンであった彼女が生きていて欲しいと願っているのは私だけではないと思う。
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by ihatobo | 2010-02-12 19:34 | ある日

『関係する女 所有する男』(斎藤環 講談社現代新書09年)

 「性の科学」とされる“精神分析”の諸説を使って、男/女性の区別、差異を解説している本書は、その“精神分析”のこみ入り具合もさることながら、男性、女性をスラッシュで併記すればそれは人間であることに他ならず、では“精神分析”が「人間の科学」かと声高にいってしまえばトンデモ本になるところを、微に入り細に入りしかも簡明にそれらの事柄を辿っている。「性ほど普遍にして固有なものはほかにない」→「個人の性生活とは、もっともパブリックにしてプライベートな問題領域」→「精神分析は問題の細部をよりよく見るために用いられる顕微鏡のような道具なのだ」
 つまり、言語が初め他者として私達の前に立ち、それを私達は認めその機能に頼ることになるのだが、それは飽くまでも他者であるのだから完全や全体から常に「欠如」してしまう。その「欠如」を埋めようとするのが「欲望」である。言語を得たあとの私達が常にある欠落感を持つのはそのためにである。“頭が回わり”“口が立っ”ても当人の欠落感は残ってしまう。それは“性格”の問題ではない。
 本書はその「欲望」の男/女の傾向/方向を症例や“おたく”文化の分析を通して述べている。
 それは、男/女に共通しているのだが、ある場面での相手(異性)と話者ではコトバに対する立場が異る。その場合だけではなくレジュメを用意した講演や会議、あるいは書籍であったとしても、私達は基本的に「信用してない」。ではどーするかという地点での様々なヒントとなるコトバやフレーズが本書にはある。
 『バナナフィッシュ』(吉田秋生、発刊以来15年間、当店の本棚に置かれている)、『イグアナの娘』(萩尾望都)他、川上未映子の受賞インタビュー、スラヴォア・ジジェクの『快楽の転移』なども紹介されている。
 喫茶店が「関係」や「交流」を保証する具体的な空間(場)であるとすれば、それを「所有」する、つまり家賃を支払ったり、清掃・補修などのメンテナンスをするのが店主であるのだが、別項で述べたようにその役(ポジション)は“メタ店主”のものである。私自身は「所有」へ向う「欲望」を忘れてしまっている…
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by ihatobo | 2010-02-03 20:52 | 本の紹介