カテゴリ:どちらかといえば、新譜案内( 7 )

『バダル・アリー・ハーン・カウワール五重奏団&パーティ』(近日発売予定)

 ハーバードで赤道付近の民謡を調査・録音採譜しながら、自身も演奏活動している店のお客様がいて、彼女が所属するバンドのアルバムを持ってやって来た。毎年夏と冬の休暇の期間を地元で過ごしては、また帰ってゆく。アルバムはバンド名と同じ『Debo Band』(subpop 98787 20032 2013年)。
 昨夏は、スタッフや音楽好きのお客様との間で、「演歌」だ、いや東西の交流はヘレニズムの頃からあった。それがはるばる「黄金を敷きつめた家敷まで上がり込んだ」と、物知りが主張したりしていた。
 しかし、最近の「歴史学」によると、「演歌」のコトバが造られたのは「先の大戦」後、たかだか60年程しか経っていない。よくカラオケの“常連”おやじ、おばさんが声を張り上げて「やっぱ演歌はニッポン人の心の故郷よねぇ」と涙を流している、というが、ちょっと無理がある。
 それより以前の多分江戸の遊び歌やシリトリのリズム、更に以前のいろはにほへと…や読経などが、心に沁み、遠くから聴こえてくると、心やすらぐのが本当のところだろう。

 さて、今回はそうした伝承や事実のプロセスを何なく直接に扱っているバンドが現われた。
 2012年の東京公演のライブ・アルバムで、サウンドは8+3、12+3の独特のリズムを持って徐々にグルーブしてゆくのだが、イキナリ日本語詞が挟まれる。
 坂本九の『幸せなら手を叩こう』である。(“THE ショーワ”)
最初ビックリして耳がラインを追うが、三回くり返される頃には、他言語(バングラデシュ)が何なく日本語に聴こえてくる。
 短いリフレインのフレーズが「サァ、サァ」「ソレ、ソレ」になる。要は神輿の掛け声である。
 「マダ、マダ」はくり返すうちに「マダム、マダム」に聴こえるから「ドンペリ、ドンペリ」と勝手に自分の歌詞が浮かんでくる。楽しい。自分が歌っているような高揚がくる。しかも、妙に溶け込んでいる。再び、要は盆踊りである。踊れる。ターンしたりして。どうも「音頭」だろう、コレは。
 この音が先か、頭が先きか、を考えてみると、カラダは知っているが、何のリズム・パタンなのか、知らない。いわれの分からないまま、流通しているのが、このオンドである。

 そういえば「デーブ、デーブ、百貫デーブ」にしても、一貫は重さの単位。一千匁(もんめ)のことだが。
 百貫が何キログラムなのか、既に私たちは知らない。しかし、この囃子コトバの調子は知っている。

 ともあれ本アルバムは面白い。開かれていて、つい手拍子を打ち、カラダがフリをする。コレが一昨年にこの地で実際に起った不思議を私は思う。
 
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by ihatobo | 2014-09-18 22:20 | どちらかといえば、新譜案内

『オレらは肉の歩く朝』(前野健太/フェリシティ PECF1062)

 前野の4作目のアルバムはジム・オルークのプロデュース作。
 この奇妙な言い回わしによるタイトル、春までの間レコード店の広告に使われた「この時代が何か、分っていたら歌は答合せになってしまう」という彼のメッセージ、「百年後、キミと(あの店で)待ち合せ」等々、彼の<歌>にはドキっとさせられる。本作も後半へ向う<歌>の流れがいい。
 前野のピッチが揺れる「東京2011」に、彼は録り直しを求めたが、ジムに説得されたという「今回は受け入れてみようと思った」
そのバンドで今年の"フジ・ロック"に出演が決まったそうである。(祝!)
 加えて、前回紹介した『ソウル・マイニング』(みすず書房)の著者、ダニエル・ラノアと同じ日のステージにブッキングされている、という。
 私たちの店は、「新譜と新刊を追って36年」としているが、そのとおりの偶然(必然)のステージがこの夏実現する。

 今回は加えてアゴタ・クリストフの第一作『悪童日記』(ハヤカワepi文庫)の紹介を一言。第二作『ふたりの証拠』から読んでおいてラッキーだった、というのが読後感。
 本作は余りにもヒドイ。多分、初読時それを予感したか、来日時の情報による判断だったのか、無意識のうちに心を閉ざして行を追ったのだろう。
 第二作よりもより過酷である。
 「事実」を列記してゆく、叙事文体は変わらないものの、いやむしろ、ある軽さを放射しながら、行は進む。
 自分の能力を鍛え、何事にも心を開いて踏み込めば、良いことを、この本は教えてくれる。
 その偶然/必然の日、もうひとつ偶然が重さなったのだが、それは次回に。
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by ihatobo | 2013-06-13 11:56 | どちらかといえば、新譜案内

ベイルートとZAZの公演の間に #2

 そのZAZの新譜紹介の際(2010年10月)に、既に15年程
の期間に渡って小田原から通ってきてくれている押野裕さん
の「コレ(ZAZが丁度かかっていた)買いました」を披露したが、
その彼の『雲の座』(ふらんす堂)が日本俳人協会”新人賞”
を取った。俳句である。
 秋の終り頃になって「俳句、やってまして」とレジでいわれ、驚いた
のだったが、年末に「ジャマじゃなければ」と『雲の座』をいただい
ていた。「いや買います」「いや、や、や、どうぞ」がくり返されて、熱り
もさめぬ時の事件である。
 私は夕刊を自宅で読まず、翌日、店で読むのを習慣にしているが
「俳句、やってまして」の時は、彼が帰られてから前日の夕刊
に写真と共に新作、簡単なプロフィールが記されていたのを知り
驚き、「ジャマじゃなければ」の時は、感想もそっちのけで、「何か
お祝いを」というと「・・・・」と暫く答えなかったが私は何かレコードを
と見積っている。
 彼は新婦のCDも含め最近はジャズのアナログを買って来ては嬉しそうに披露して
くれるからだ。私にいわせれば大変にセンスが良い(意味/価値がある)
心して選んでおこうと考えている。
 そして、次いてやはり15年程の間店を使ってくれている写真家
が賞を取ったのだが発表は後日なので次回そのご報告をしたいと
考えています。
 それから当店の文芸部が独立に発行しているHe+Me
=2(ヒミツと読む)第13号が2/14バレンタインデーに出来上がります。
今回のお題はー愛ス(アイス、ICE)と好キ(スキ、SKI)
を両方とも使って文を造って下さいーという時節柄、試験
問題のような原稿依頼です。 オタノシミに。

 そして何よりも今回の特筆は 65才の エンケンこと遠藤賢司の
新譜の良さだ。 タイトルが『ちゃんとやれ!エンケン』(MIDI)
心にしみる凄さだ。 近日入荷します。 当店が税金を払う
3000円ジャスト! 元気が出るぞ!
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by ihatobo | 2012-02-14 00:12 | どちらかといえば、新譜案内

セシル・テイラー:カフェ・モンマルトル あとがき

「解説」は「すでに出来上がっているある秩序…誰もが承知しているその全体図のなかに作品を位置づけ収める作業である」のだが、本ライナー・ノーツは意図してその作業に重心を乗せていない。
 というのも、喫茶店という装置は、確かにお茶を飲んでひと息つくためのものだが、その装置自体がある主張なり、表現なりをしている。最近一般的に使われるようになったインスタレーションがこの喫茶店を説明するのに都合がいい。
 そして、その装置を動かしているのはその時のスタッフひとりひとりであり、更に、その装置を機能させようと、各スタッフが作業を粉すうちに、本ライナー・ノーツのいう「主体」が形成されているである。
 世間で“強要”される“モチベーションを持て”という問題がこの「主体」の生成に関わっている。
 この喫茶店という装置の内訳を記述する意図を持って本ブログを始めたのだが、このセシルの演奏に関する文もその文脈に沿っている。
 つまり、普段私たちが普通にイメージしている喫茶店というものがこの文でいう「形式」である。しかしそれだけではこの店は機能しない。朝掃除をし、買い出し、下準備が終ったとしてもまだ機能はしていない。
 そこへお客様が不意に現われ初めて喫茶店となる。ボンヤリとイメージしていた喫茶店という「形式」が、その時のスタッフによって実際の場面が采配されることで、たち現われる。
 私たちの店は、スタッフ全員を束ねるスローガンがない。その代わりにメニューを厳密に作ること。そのレシピの「解説」が“接客”である。それ以外は業務外である。
 段取り、仕切りと訳されるマニュアル、プラクティカル・ワークは各自の裁量に任せられている。
 そしてその“モチベーション”をそのコトバでは問わない。作業を続けているうちにそれ(主体)は形成されるようになっている。
 こうした問題意識を持っているセシルにとってのピアノ(装置)と、そのバンドを運営している三人のモチベーションを何かと「解説」しようとしたのが本ライナー・ノーツである。
 冒頭の「解説」の定義は『英国の近代文学/吉田健一』(1964→98年岩波文庫)の解説者川本皓嗣によっている。
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by ihatobo | 2010-04-10 13:01 | どちらかといえば、新譜案内

セシル・テイラー:カフェ・モンマルトル

 セシルは本年81歳。NYに生れふたつの学校で音楽を学び、56年にトランジション・レーベルでデビュー作を発表(この年サン・ラも同レーベルで作品を発表)、翌年スティーヴ・レイシーを含むカルテットでニューポート・ジャズ祭に出演し、音楽家としての基盤を築く。同レーベルのプロデューサーは後にボブ・ディランに電気ギターを持たせ、同祭に出演させ物議をかもし、翌67年にはヴェルヴェット・アンダーグラウンドのデビュー作品を手掛けたトム・ウィルソンである。

さて本アルバムに収められた演奏の「解説」を試みよう。

(予備知識、聴取を用意した)あなたが、そのクラブに入って演奏が始まると、その先入観(印象)は完璧に混乱し始める。

 英フォンタナ盤のライナー・ノーツ(エリック・ウィードマン)はそう記してこの時のセシル・テイラー・トリオの演奏が、そこに居合わせた人々に与えた衝撃を伝えている。
私が観たステージ(73年、ドラムはアンドリュー・シリル)を想いながらこの報告を読んでゆくと、その62年の演奏を目の当たりにしている“錯覚”がいま現在の私に訪れる。その“錯覚”が導き出すのはノンビリした懐旧ではなく、ハッキリと甦える“画像”である。その“画像”はセシルの演奏と実は同等なのである。
 つまり、“内省”的な記憶や経験として計れるそれは類ではなく、生物学用語であったフォトジェニック(発光性)であり、私の経歴の中のどの出来事とも関連のない孤独な光景、詩的な極めて短い、それはある瞬間である。演奏(音)に立ち会って光景(波動)が残される。どういうことだろうか。その“画像”は確実で、漂っているのでも、ブレているわけでもない。曖昧だが小さくプルプルとうごめいている。

 彼を紹介する文にはピアニスト、詩人!の肩書と、演奏の特徴として「極端な活気、身体的なアプローチ、即興による複雑なサウンド、頻度の高い振動 / 全音程、入り組んだポリリズム」が列記されている。
 それは全くその通りだと私も考えるが、その実際を見渡すにはやはり演奏を聴くしか手立てはない。しかし、この五つを全部やるのはシンドイ。音楽にならない筈だからである。
 
 「頻度の高い振動 / 全音程」というのはトーン・クラスターという技術の「作用」として現れる音群のことで、ピアノの音色さえも消えてしまう程の全周波数に渡る音の群れが鳴る。ピアノに限ったことではないが、ひとつのキーを押しただけでも、その音の倍音と呼ばれる周波数二倍の音が同時に鳴っている。
困ったものなのだ・・・。

彼は腕を激しく動かしながら、頭と上半身は前後に揺らしている。彼の手はものすごい勢いで鍵盤を駆け巡り、そのあまりの速さは眼で追い切れない程だ。
エリックはそう続ける。

 それでも単純な想い出の中の彼は、その速さにもかかわらず実にエレガントである。
「身体的なアプローチ」とは、だから表層として構築された、ピアノに対する彼の「主体」が形成されていることを指し示している。
 ここで文脈を換えよう。そのシンドイ、困難でもある演奏を操る彼の「主体」はタフ(呑気)なのだ。その呑気な彼が他の何ものとも交換できないある音楽的な「価値」を作り出している。しかし、それはいわばハダカの「価値」であって「意味」はもちろん彼にとってはない…。

そうしてリズムは存在と存在時間であり、内容は色彩の心的、肉体的な感応を具体化するための時間量time quantityを提示する。

 この文は66年の『ユニット・ストラクテュア』blue note BST84237のライナーにセシル自身が書き記した“解説”の一部である。

 このリズムに関する“解説”によって、では彼の創り出した「価値」は交換可能になるだろうか。もちろん少なくとも私はその「価値」を認めチケットを買い、働く筈だった時間と引き換えにそこへ出かけて行った。それは「価値」の交換である。「価値」はそれに対する共通する認識があれば「交換」することができ、そこに「意味」が追い着く。
 それはさておき、セシルの作品に関する「解説」や紹介文には「難解」の単語が頻出する。しかし、その「難解」は旧来の音楽理論で説明するには複雑すぎる。という意味で、このアルバムに収められた作品も美しいの一言に尽る。説明の文脈をどんどん引き継いでゆけば、その楽曲を分析 / 記譜するなりレコーディングするなりして、あとはご自分で演奏してください、ということになる。だからたとえセシルの作品を完璧に把握し、「解説」でき、更に演奏できたとしても、やはり「価値」はあるが、あまり「意味」はない。
 彼の作品に限らず、芸術一般に対するその享受者は、自分の行為に「意味」を持ちたがる。それはあまり「健康」ではない。享受、つまり楽しかったらそれでいいはずである。
とはいえこの文は「難解」である(笑)
 しかし今度の対象は文である。そうであれば“解読”できる筈である。だが詩人でもある彼のこの“解説”は、つまり詩的散文なのだ。かなり厄介なこれは文である。

詩は無限定の感情を掻き立てるイメージを提供するのであって、その目的(無限の快楽、美)のためには音楽が不可欠である。(「某氏への手紙」『ポォ評論集』八木俊雄訳 岩波文庫1931→2009年所収)

 これはエドガー・アラン・ポォの詩論である。ただここでポォが記した「音楽」は「拍子」「リズム」「押韻」の付記があるのだが、コレは近い。
 彼は更に別の箇所で「最も魅惑的な詩のムード(様式)である音楽によって、涙を流し、ついには声に出して泣く」のは「詩をとおして、音楽をとおして、われわれが一瞬あいまいに把握できる、かの聖なる歓喜を、あますところなく、今この地上において、ただちに、かつ永遠に捉えることができないことに対する、腹立たしい、耐えがたい悲しみの故なのである」と続ける。

 ポォの求めているイメージはセシル・テイラーの速さを持っていないだろうか。この詩に対する、音楽に対する彼のもどかしさは、私がセシルの演奏から受けた衝撃とそれを「解説」する時のもどかしさに似ている。
私はそれを「美しいの一言」に尽きるとお気軽に前記したが、その内訳がこのポォの長い“嘆き”である。

「リズムは存在と存在時間」であるとはどういう状態なのだろうか。
この文は音楽という型式が機能を始める際に起こるリズムに関するセシルの認識を、指し示すポイントである。ポォが音楽を「詩の最も魅惑的なモード(様式)」と呼ぶのもこの音楽の「作用」「効果」の内訳を彼が既に知っているからだ。詩という形式(目に見えない)が実際に動き始めると、音楽というモード(様式・目に見え、聞こえる)が伴走を始める。

 作品は実際のリニアな時間の外に出ている。それを“美”(空間)といったり“永遠”(時間)といったりして人々は享受する。しかし、音楽はその実際の時間を問題にしながら進行してゆく。
とりわけセシルのユニットの当事者は忙しい。過酷な速さを要請されている。セロニアス・モンクの「難解」曲との共振を感じさせる「コール」でのジミーを追ってゆくとその事情が分かり易い。
彼は初音を少し長く吹いてラインを作り始めるのだが、すぐに「存在と存在時間」としての“リズム”に寸断され、音程感、音圧、沈黙(間)というよりは消失を蒙りながら、彼の領域をユニットに開け渡してゆく。
 彼のラインだけを取り出せば、デコボコであり、領域の幅は広がったり狭まったりしているのが分る。だがそれ以上に“リズム”が姿を見せてそれ自体が演奏されている事に衝撃を受ける。
セシルの指の返しは異常に速い。その技術が音から響きを奪い、それを音程感のないパルス(振動)に変える。音は凝縮や圧縮ではなく丁度鹿の群れが移動しているように、抜きつ抜かれつしながら群れの全体は断片化し、分断され、膨らみ、かと見ると一気に縮まる。そうして彼のいう“リズム”が実在する量感を持ち演奏は発熱する程のアクテュアリティを発散する。これが“光景”として私に残される。
 それは「自然」がそこへ転写されているのであり、「健康」なことだと私は思う。
 
 1989年、セシルが来日した際のレクチャーに、私は雑誌記者として出掛けていったが、彼の話は、やはり通訳されていたにしても、すぐには理解し難かった。「山」や「海」があり、「波が寄せては返す」「うねり」とその取材時のノートには記されている。ビート?という私のメモがあるそのノートの単語は、いまだに私の中で文脈を持ち得ない。
 偶然や直感に帰すことのできない型式を認識することが、その成果として、「自然」が彼の「主体」と重なる、ということなのだろうか。


2010年4月17日発売
『セシル・テイラー、カフェ、モンマルトル』ライナーノーツ
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by ihatobo | 2010-03-19 14:53 | どちらかといえば、新譜案内

スペイン、フレッシュ・サウンドが良い。

 近年評判のスペイン発、フレッシュ・サウンドの“ニュー・タレント”シリーズだが、06年の『デュエンド』を中古で買ってきた。
 本作はオーソトグスなピアノトリオだったが、ベースのエスペランサ・スパルディングが数曲でスキャットしている。
 このシリーズを見つけたのは02年のロバート・グラスパーの『ムード』を知った時で、彼は昨年米ブルーノートに新作を発表した。彼は各地域からバークリーに集う精鋭のひとりで、『ムード』ではスペシャル・サンクスにレオン・トーマス、ケニー・ギャレット、ニコラス・ペイトンらバークリー組ともいえる名がクレジットされている。

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by ihatobo | 2009-03-23 23:37 | どちらかといえば、新譜案内

ヨハン・クリスター・シュッツ

 昨秋神戸のプロダクション・デシネが招聘、製作したヨハン・クリスター・シュッツの日本ツアーの一夜を池の上のボブテイルで観た。
 意外にエキサイティングな場面もあったが、極めてオーソドクスな弾き語りで心地よかった。
 それに先立ち、2年程以前に知人のCMディレクターから今回の国内発売された『パッション』(04年)を借りて聞いていた。

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by ihatobo | 2009-03-19 09:29 | どちらかといえば、新譜案内