カテゴリ:本の紹介( 104 )

『日の果て』(梅崎春生 雲井書店 1950年)

 「反戦」をいう小説はたくさんあるが、その斗いの場では、ひとひとりが死ぬわけだから、それは大変な事だよ、と、そこに焦点を当てる作家は、数多い。
 そうした小説はいまに始まったことではなく、洋の東西を問わず、戦(武)士が登場すれば、殺すことの本質を問わずには済まされない。
 梅崎春生『日の果て』(雲井書店 1950年)もそんな小説である。

 本作は第二次世界大戦終結間際、沖縄が、世界秩序に「復帰」したあとの鹿児島が舞台である。その戦況を見極めた国軍の、指揮系統の混乱を描いている。もはや敗戦は事実上結果されている。その状況で兵士は自分らしく生き続けることに唯一の価値を見い出だそうとする。
 そうした中で主人公は「心がすがすがしく洗はれる」思いをし「先刻の気持の反動と判ってゐながらも、私はこの感傷に身をひたしてゐた。」
 そして、終に核爆弾が広島に投下される。
「大きなビルディングが、すっかり跡かたもないさうだ」
 長崎の地名がないことや、跡かたもないという描写には引っ掛かるが、それだけの「犠牲をはらって、日本と言ふ國が一體何をなしとげたのだろう。」
 「もしこれが徒労であるならば、私は誰にむかって怒りの叫びをあげたら良いのか!」
 そうして戦斗機の弾丸に額を撃ち抜かれた見張兵を埋葬する。

 本作は作品ではあるものの、大変ダイレクトに主張を作ることに成功している。だが、いまになって読むと、フィクションであることが如実であることも確かである。当時の読者は、どう受け止めたであろうか。1950年の発刊である。
 不謹慎ながら、旧字、旧仮名が異言語のようで、同時代作品として読めなかったそれは理由であろうが、虚しく、絶望し、希望も私に芽生えさせた作品であったことは確かである。
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by ihatobo | 2015-04-28 23:43 | 本の紹介

『国家・宗教・日本人』(井上ひさし vs 司馬遼太郎 講談社 1995年)

 白州次郎『プリンシプルのない日本』(新潮文庫 1995→01年)を紹介しようと思ったのだが、その原稿を失くしてしまった。丁度、各自治体の首長選挙の期日が迫っていたので、大人の責任を全うしませんか、という狙いがあったのだが…
 本ブログは、そうした世事からは一歩距離を措き、文庫/新書を中心とした新刊本の紹介を旨としているから、ま、棚に上げてもいいのだが、50年以上以前に上梓された本書は、大人(常識)の責任を、全頁に渡って記しているために、ここに紹介しようと考えていた。
 ところが、ない。
 もしかして、「やはり、情況に発言するのは慎みましょう」という暗い無意識が、“神隠し”を演出したのやも知れぬ…が。
 内容としては、同様の主旨をめぐっての両者の対談を収録しているから本書でいいのだが、白州は大戦を挟んで内閣の当事者であり、最近ようやく話題に登ってきた“憲法義論”を当時から主張していたので、次回再読してエンピツを頼りに再現しておきたい。
 タイトルは『プリンシプルのない日本』
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by ihatobo | 2015-04-28 15:52 | 本の紹介

『abさんご』(文芸春秋 2012年)

 やはり、積んで据いた本作を、やっとの想いで読んだ。やっとの想い…
 読みづらい。ホント、文が突掛かって来るのだ。しかし、この作品を嫌いにはならないだろう。分る、のだ。
 文を書いている際に、空覚えの漢字を使いたくないものだから、とりあえず片仮名でも平仮名でも書いておく。
 あるいは書いておきたいことが押し寄せて来ていて、筆圧が強くなるような際に、またも取りあえず仮構するのを承知で記号を書きつけておく。読み返した時に思い当る符号を印しておく。
 そんなことがある。
 本書は、そんなこと、が、そのまま何とか文になっている。
 という趣きである。何らかの秩序か、あるいはルールがあるらしいが、いちいちチェックするのももどかしく行を追う。
 確かに、もの凄い早さでページを繰っている自分が、そこにいる。
 そう、確か婦人公論だったけれど作者に対する取材記事があり、それを読んで私は本書に興味を持ったのだった。
 他に新聞の書評を読んだのだったが、その字面で、本書内容は、私に知れた。
 まづ普通の体裁である「毬」を読んだ。
 富岡多恵子が切り開いた構成ではある。
 その引き継ぎであり、またその進化形が本書である。
次に「abさんご」を読んだ
いやはや。である。
これまでに私が読んだり書いてきた文が一挙にパァーである。(つづく)




 

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by ihatobo | 2015-04-16 23:14 | 本の紹介

『火花』(又吉 直樹)その2と『入江宏 メモリアル 1955→2014』


 いやー053.gif『火花』は良い。
フツーに良い。
あんなモン読んじゃったら忘れてしまう。
それが良い。
今週アタマに更に版を重ねたと、広告が売り出している。
放っとけばずっと売れますよ。
アーゆうのに賞をあげれば、その賞も立派。
格が上がる。
そーゆうのを「カブ上げたね」と資本主義の時代は言い習わしてきた。
資本(読書体験)は放っとけば上カブ上がる訳。(ね、ピケティさん?)
情報をやり取り(会話)しましょーよ。

 さて、今週は開店スタッフに始まりきのーはその次のスタッフも来店。私をオチョクって帰った。
こーゆうのって、会話だよなァーって思う。
30年以上かけて会話する。
そーゆうのっていいと思う。
この本自体がそーゆー会話で出来てて、それを記録したってのが本領(発揮)よね。
事実居合わせた15年来のお客様と、この店についての履歴を披露し合って、メル友になるらしい。それも情報交換のなせる業。
本人同士はおカネのやり取りしなくていいから安上がりだし、そもそもそこには金(資本)が介入できない。
元男性スタッフは、レコードを三枚も買ってくれて、ご機嫌だったし。
つまり、自分がこの店にいた頃のレコードを見つけて買って行ったので、過去を取り戻したような気分だったのだろう。
店は相変わらず新譜を探し回っては流していますが。

次回は、昨年亡くなってしまった逸材、入江宏のピアノをめぐる世界。
久し振りに良い。




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by ihatobo | 2015-04-02 22:48 | 本の紹介

『物質的恍惚』(ル・クレジオ 1967〜)

 「いつまでこんなことやってんだろ」を勝手にシリーズ化することにした。シリーズのタイトルは〈何を今さら…〉
  というのも、新刊に面白いものがなければ、既存の本に興味が向く。
 筒井の回でもやったことを想い出し、この際シリーズ化しようと思い立った。で見つけたのがル・クレジオの『物質的恍惚』(豊崎光一・訳 岩波文庫)
 この際だから言っておくが、この老大家存命である。
 しかも、新作『戦争』も用意されている。(筒井も少し若い大家であるが新作を発表した)
 その私の現状判断の背中を押してくれるのが、“世田・美”(世田谷美術館)で20日まで開催されている「松本瑠樹コレクション-ユートピアを求めて」展。
 この展覧会を企画、応援した亀山都夫による解説が新聞に載せられている。(11月5日 付)
 その記事によると、まず、このタイトルに含まれる「ユートピア」である。
 このギリシャ語の語意は「どこにもない場所」。
 古来ヒトの書く物には、不可思議な空白が必ずあるもので、それは何だろう…と。それを想像するのも読む者の楽しみでもあるのだ。
 しかし、それをことばで自覚しないうちに、書物は終りを迎えてしまう。もどかしい。読むそばから失われてゆくものである。
 本書にある記述-「ぼくが望んだのは、生以前の虚無と以後の虚無を内包している(!)ような書物を創り上げること→(主旨)」は、私が読んでいる本に、出来上がる以前と以後が、内包されている。
 としたらその不可思議が私自身に移ってきてしまう。
 そういった書物自体が不可思議を湛えているのである…
 私たちの店は「どこにもない~」を文字れば「どこにでもある場所」として、ひたすら普通のコーヒーが飲めて、ひと休みできるテーブルをご用意しています。
 次回は、そのひたすら普通の小規模飲食店を扱った『カフェと日本人』(高井尚之 講談社現代新書 10年新刊)をご紹介します。
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by ihatobo | 2014-11-09 20:28 | 本の紹介

『もう年はとれない』(ダニエル・フリードマン著 野口百合子訳 創元推理文庫 2014年)

夏が終わる。
特に、今年は、目覚めてから服を撰ぶ、のが、難しいのはいつか触れたが、季節は巡りここ10日くらいは、ミモザの風が通勤を後押ししてくれる。
実感することは易い。五感が目覚めていれば、こうした心地よい気分も易くやってくる。
本書は明治の詩人、荻原朔太郎(1886-1942)による与謝蕪村(1716-1783)の評伝であり、“郷愁”のコトバによる「詩」の「本質」を探究した“記述”である。
本書の著者、山下一海は、朔太郎が発行した詩誌の後継者だが、ずっと若い世代である。
しかし、本書を丹念に読み込めば、世代が重って「いたかどうかなどは問題ではない。」
「つまりは」著者自身の表現である。
本書を味わうのは蕪村を味わうのと同じである。

他に、山下の詩的用語として、「杜撰」「追懐」「家郷」「感流」「音象」があり、はなはだ興味をそそられた。
音楽はリアルタイムで流れゆくもの、であるし、琉球フォークを専門に記述/採譜している伊波(沖縄のわらべうた CBSソニー→SONY 25AG454〜)を引き継いだ仲吉史子によると、それらの用語がピタリ、解説文(仲吉による)のオリジナル(太祖)になっているからだ。
次回は、その同じ用語で紹介できる映画ディレクター/ミュージシャン、プロデュースの、クリント・イーストウッドの評伝/伝記『もう年をとれない』(ダニエル・フリードマン著 野口百合子訳 創元推理文庫 2014年)を紹介する。
「アルツハイマーを発症したのではないかと怯えている87才(クリント)」が活躍している、これはその映画の原作である。楽しそう
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by ihatobo | 2014-10-01 20:49 | 本の紹介

『歩くひと』その2

いづれにしても続編が読みたいが、本書で主人公が初めて掛け声を出す「夜明け」が良い。
彼はタクシーで帰宅するが、カギが見つからない。ドアにバックを立て掛け、そのまま”歩くひと”になる。
この主人公は、電車が終わっても仕事をしていたようである。あるいは、最寄駅で今日はご褒美をあげようとしたのかも知れない。
いや、子供のいないらしい自宅の灯は消えていたから、いくらなんでも…
彼は40代とのことだが、そういう設定では、体力のない私でも彼のように朝まで”歩くひと”になりかねない。とても良く分かるのだ。
激しい情熱を私に与える。
前回、似ていると述べた末永史の『主婦的生活』(主婦の友社 92年)にも同様の場面がある。そちらは、「不倫」?「浮気」?の場面なので、よりパンチが効いているが、それは性差が作品に向う角度を変えてるからだろう。画面から伝わってくる情熱は、同じであっても。
それにしても、本書を渡してくれた友人によると、作者は本年68才であるとのこと。本書制作は作者52才ということになる。
私もその頃にある情熱を傾けた対象があった。それはいわゆるカタチになっているが、それがヒトに伝わったか大変心もとない。
友人は作家と共に、来年はパリに同行する、という。

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by ihatobo | 2014-09-05 20:29 | 本の紹介

『歩く人』 (谷口ジロー90~91年→小学館文庫98年)

 漫画を選ぶには、表紙はさることながら、何といってもトビラである。私がマンガにのめり込んでいた時期には、数ある雑誌の本文ページから読めそうな作家を探すのは、このトビラである。
そのあとパラパラと指で押さえてみる。そこまでゆくと、その作品の束が分かる。
読むに当たっての時刻の配分をそこで多分測っている。
本作の作者については、名くらいは知っていたが、殆ど未知であった。
しかし、このトビラは良い。タイトルの簡潔さも主人公とタイトルの配分も良い。
という訳で、流れるようにページを繰った。
良い。
四季が移りゆき、それが2回繰り返される。その構成も良い。
深さのある懐かしさが章ごとに高まってゆく。
それにしても、異国で人気が爆発するのが、分る。
来年には谷口の大規模な回顧展が、国費で開催されるという。
私が日本的な視覚の記憶を持っているのか、彼の地でも「懐かしい」がポイントのようである。
天を仰ぐカットが度々組み込まれているが、最近は死語となった(ビックリ)仰天という日本語を想い出した。
 想い出すといえば、40年近く以前の、冥作の作家末永史を継手に想い出した。
 ページに音がしないのだ。本作も音といえば鳥の声、セミの声、雪の沈黙が画面から確かに聴える。
 あるいは遠くの、ウスいラジオの音たち。それもコトバ以前の背景のスクリーンの如き音たちが。
 それこそ40年以前の内々の会話では、この類いのマンガを「間が・・・(良い)」といい合っていた。この“あの間が・・・”は映画や落語、漫才についてもいい合っていた。
 この「ま」は辞書によると、「今」の「ま」と同じだとのこと。いまの「い」が強調の接頭辞で、「いま、ひとつ」「いま、さら」という。
 つまり、今をもう一回!、今をさらに凝縮して、ということらしい。


 
 
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by ihatobo | 2014-09-04 22:47 | 本の紹介

『内臓とこころ』(三木成夫)その3

 さて「こころ」はどのように発生(機序)したのか?
 それが第二章に述べられている。本当に。
 心理学や文学ではない。事実(=科学)として述べられている。
 冒頭、「再現」というコトバで文脈が提示される。
 ー (こころは)なにか夢のような、厳密にいえば、完全に形象化されたひとつの光景として現れてくるのです。

 それが「数百年前そして数千万年の歳月が」いわば「おもかげ」として(幼児に)去来し、過ぎ去る。
その数千万年の歳月が現実の人の幼児段階で、ボンヤリと一瞬間「再現」される。
その一瞬間は、現実の長い人の寿命の期間の一瞬ほどに短い。

ー (現実の)私のささやかな経験ですが(・・・)

 と、続く。

ー これほどつかみにくい世界も、めったにありません。
 この世界を「こころの目覚め」というコトバで著者は述べる。
 そして、そこに“あたま”の「歯み合ってゆくいきさつを、そうした角度から断片的ながら、振り帰ってみようと思います。」

 ワクワクしてくる私であった。つづく。


 
 
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by ihatobo | 2014-08-22 23:08 | 本の紹介

『東京プリズン』(赤坂真理 河出書房新社12→14年)

 7月の半ばになって、秋の虫が鳴いたのに少し驚いたが、その一夜でピタリと収まった。
 そして、大(台)風、大雨と続き、立秋。
 関東北部の猛暑、それが埼玉や八王寺まで降りてきて、都内・近県のお年寄りを中心に、熱中症による死亡事故が相次いでいる。
 そういえば、蝉が鳴かないなァと思っている。
 通勤路にほどほど広い、庭とまでいえない鬱蒼とした北側に面する雑木林があり、少し遠回りだか、蝉の声を頼りに行ってみた。
 そこに夏があった。
 アタマが真白になる大音響がそこには降っていた。

 意識/コトバは、脳全体のわずか2%が司るというが、全くその通りで意識はトビ、全身が耳と化した如く脚も出ず、暫く立ち尽した。
 暑いが乾いていて、その日の通勤は幸せであった。
 「さァ、今日も暑くなるよー」と誰かの掛け声が聞こえたようだった。(よし、今日一日ガンバロー)

 本ブログで紹介した赤坂真理の長篇『東京プリズン』(12年)が文庫になった。是非この機会に、しんどいのは本作もそうだが、夏らしいというか夏のテーマである。暑いんだから仕方ない。
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by ihatobo | 2014-08-18 02:19 | 本の紹介