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「UMA BATIDA DIFERENTE」 / BOSSA CUCANOVA

夏のある日、窓外を歩いてゆく人々を眺めている。部屋の壊れかけた空調がカタカタと鳴ってあえいでいる。そうした時計の時間から外へでてしまうような場合に、私がいま眺めている視界にも時間がなくなる。実際に窓外をゆきかう人々は事実移動しているからそこには時刻が流れている筈だが、私はその外へ出てしまっている。先人がいうように「画面で考えている」という状態である。

彼はベルギーの画家だから、そのように表現するのだが、私の場合は「音で考えている」状態なのだと思う。私はだから非在を生きている、と表記せざるを得ない。生きているといっても窓外をゆきかう人々の時間の外にいるという意味だ。だから非在が身体を透明にしてゆくのではなく、何物かによって彫刻された身体、単なる個体がそこで音を聴いているという状態である。

というのも考える(想う)と自分がそこに居る(在る)とは実は並存しているわけで、我想う、故に我在りとは実際(窓外をゆきかう人々)の時間へ戻した場合の物言いであって、事実はそれらは接続されていない。つまり、私たちひとりひとりは、いまそこで「画面で考える」ことができる。



だから「音で考える」ことも可能なのだ。それを、忘我や陶酔というコトバを使えばいわゆる思考は進められてゆく。しかし、また別の画家はやはりそうは進めずこう書き記す。

 “川のせせらぎを眺めている人を見ることはできるが、そのせせらぎの音を聴いている人を聴くことはできない。”

コレの後半は音を聴いている人が事実音を聴いていることを確かめることができないという解説付きである。さて、だからその人に音が聴こえているか確かめる唯一の方途はダンスである。

ここで鳴っていたのはザ・マン・イン・ラブであり、ルビィ・マイ・ディアであった。私はダンスしていただろうか。(「Black Lion」/ Thelonious Monk 1971年)

「UMA BATIDA DIFERENTE」 / BOSSA CUCANOVA (Ziriguiboom / Crammed Discs 2004年)を中古で見つけて買ってきた。R.メネスカル、ZUCO103、A.カルカニオトの他、マルコス・ヴァーリ、セルソ・フォンセカらが参集している。ヴォーカリストたちはメネスカルの他はミス・キャストで、ボサクカノバのビートには合っていない。クラムド・ディスクはベルギーのレーベルで、余程のことがないかぎり新譜に私は手を出すことはない。

しかし、レーベルは常に新しい角度を探していて、どれを聞いても何かが仕込まれている。フォンセカの2枚は、そのアーティス&レパートリという点で、その中でもピタリ合致した好盤であった。(「Natural」 / CELSO FONSECA,Ziriguiboom / Crammed Disc – 2003)(「Rive Gauche Rio」 / CELSO FONSECA,Ziriguiboom / Crammed Disc - 2005)

本作は3曲にクリス・デルマノがヴォーカリストにフューチャーされているが、その名を私は知らない。(探せば他の作品にその名があるやも知れないが、その意欲を私は暫々持たない)。実はこのグループのCDをもう一枚いつか売ってしまっている。しかし、このクリスの3曲はピタリ合致している。こうした曲の佇まいをこのレーベルは造るのがうまい。ただし、本作を勧めているのではない。月に10枚10年くらい買っている方向けの紹介である。

「UMA BATIDA DIFERENTE」 / BOSSA CUCANOVA
Ziriguiboom / Crammed Discs 2004年

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by ihatobo | 2008-09-29 11:58 | CDの紹介