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ある日

先日、宮澤賢治がらみのインタビューを受けた。賢治の書いたものを読んでいる者の話をききたいという。私に限ったことではないが、賢治の本は生前一冊が刊行されただけで、読んでいるといっても、私の場合もロシアの中学生が『カラマーゾフの兄弟』をダイジェストで読んでいるようなものである。

だから雑談にしかならないと断ったが、それでもいいという。しかし、相手は学生である。この時季論文の一部としての“フィールド・ワーク”でもあるらしい。で、少し頭を切り替えてはおいた。



この学生が気にしているのはそうした事情によって公平な賢治像が浮ばないということだ。つまり、彼の場合、生前の未発表稿が死後になって発見され、草野心平らが称賛したことも手伝ってそれらが刊行され、そうした勢いの後、なおも厖大な草稿・手稿の類までが全集として編纂されている。

それらのテキスト群、要するに文の群れは、つまり作者によってひとつの作品へ仕立てられるべきものではあるものの、その文脈を得て初めてある意味を形造るものだから、それらの分析・研究はさながら“神話”研究の様相を呈している。

背景文献探索、比較文化/言語学から、心理学/病跡学など、各々の専門家による論考が渦巻いており、あるいは化学者としての評価、実践的な農学の展開への論評など、彼の巨大な痕跡は、あらゆる知的興味を誘うもので、学際的、総合的な研究が展開されている。

しかし、だからといって“裸のケンジ”がそこに浮び上がるとは限らず、この学生も私をその“心酔者”に見立ててその話をききたいと発想したらしい。

その“心酔”は彼を取り巻く重要なキーワードだが、それを扱うための宗教の概念を私が把握しているとはいえない。あるいは私の店のように書籍全般と音楽というものをそこへ持ち込まざるを得ない。

そのポイントに関しては、店名を彼から借りている以上、私は一貫して注意を払っている。で、宗左近の仕事を経由して記述ということの必然性や切迫性をいってお茶を濁した。

私の店も含めた彼の取り巻きをも取り込んだ“裸のケンジ”を彼女が構築してくれることを願いながら、自分もシッカリしなくちゃと切り替えた頭で考えたのだった。

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by ihatobo | 2008-01-20 02:26 | ある日