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『遺言』(養老孟司 新潮新書)

 前回のカズオ・イシグロの五番目「チェロリスト」を大切に読もうと考えたが、書店をのぞいたら本書を見つけた。私は「無論」(青士社)、「からだの見方」(培風館)以来のファンで、毎回楽しく読んでいるので、先に本書から、ということで読んだ。

 本書も、また楽しい。読んでいて脳がキレイになってゆく。彼独自の語り口(文体)も好きになのだが、何よりも論理的で明解。それが私からゴミを出してくれる。と書いたが、本書では、それがいかんと書いてある。いや、イカンとか間違っているとかではなく、そういうスッキリとしたい、がイカン、と。

 ま、それはそうなのだが、放っといてもゴミは出るので、たまには掃除してもいいじゃないか、と、どんどん読み進んだ。掃除は気持ちいい。本書は、述べた通り明解で分りやすいが、専門用語も出てくる。

 本書は二番目のテーマとして「感覚所与」というのがある。これは哲学用語で、目に光、耳に音が入るようことを言う。それはどういうことか、というと、モノを見ようと意識して私たちは見ていない。


 目を開いていればモノを見ようとしなくても「見えている」。ということで、音も同様「聞こえている」。では、意識しての「意識」は何か、ということになる。感覚所与でピンと来なければ、それを「客観」といっても、この場合は同じ。「事実」や「現実」でも同じ。

 うーん?となる。「事実」を観察し「現実」を見つめる科学は、じゃ何か、となる。それは、「感覚所与」と「意識との乖離(かいり)を調整する行為」とする、述べられている。

 つまり、科学は裁判官であり、弁護と検察の調停をしているようなものである。

 裁判に例えば、事実をめぐって対立している両者とのどちらが本当かと判断できる、ということなのだ。

 この紹介は、ややこしいが本文は明解で分りやすい。是非、読んでみてください。

 冬の京都のように美しい、家々の軒、路ゆく芸娘、雪、下駄の音のように。


by ihatobo | 2017-12-08 10:10