『日本人は、どう住まうべきか?』(養老 猛×隅 研吾 新潮文庫 2012→16年)

 何の議論にしろ、それに水をかける論客がいるが、本書はその(論)客同士の対論といえばいいのか、真向からの対立ではあるのだが、結果同じ結論を相方の専門に対する真当な責任から導き出していて、愉快である。
 ひとつのテーマに関する対決で、これだけの緊張を強いる対論も珍しい。というのも、いきなりの行政に対する批判であっても、従割り行政のこの国にあっては、矛先は多方面に渡って尽きることを知らない。
 縦横無尽に刃を振り下している。従割り行政では、船ひとつ渡すにしても、河川を取り仕切る国交省と橋の構造上の建築基準法をクリアしようと専心する建築会社との間で、現実としての工事現場は右住左住せざるを得ない。
 いわゆる “だましだまし” が通じない行政の谷間が、できてしまう。 “だましだまし” は何も相庁に嘘を薦め、妥協を強いるというのでは決してなく、それを方法として確立して、合意の下に現場を現実の時間に戻してあげたらどうだろうという提案である。

 従割り行政では、相方共に扱いたくない谷間が出来てしまうから、相方共に結果として責任を回避できる現実が残されるのである。
 この事態は、その枠組みでは必然だが、そういって互いに責任を回避していたから現実のクライアント(工事を発注した主体)は、たまったものではない。その事態に対する議論がない状態に、本書は一貫して一石を投じる。

 あとがきで言う “だましだましの思考” は、どちらかといえば受動的だが、この二人の論客は、いわば受動のまま、果敢に現実に居座る覚悟で物事と世界について考え抜いている。
 それは頭っでかちではない肉体を、その現場 “異物” として投げ出すのである。明るい。しかし、お二人自身は暗澹(あんたん)たるものを抱えているのだろうけれど・・・

 ところで、本稿を作っている最中のある日、その、ご本人(隅 研吾)らしき男性が来店した。初め気づかなかったのだが、お帰りのお会計で「あれ?」と思った。しかし、確かめることもなく、「アレー・・・」という事だったが、一卵性の如く似ていた。者腰とかも。
 本書で知ったのだが、隅さんは、この下北沢を「都市」のモデルと考えているらしく『新・むら論TOKYO』で触れている。本書でも「OFFの街」とのコトバもあった。いやはや。
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by ihatobo | 2016-01-08 11:09