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『女の一生』(伊藤比呂美 岩波新書14年9月新刊)

 本書は、「自分であることが一生の命題でした」という著者は、生まれてこの方、女であります。と最初の一行を書く。宣言である。女宣言。
 そこから始め、その自分が老いつつあること、(女の)「苦労はたいてい経験し」たこと。それ故に「今では、物事がよく見通せます。人の悩みに助言もできるようになりました」という。
 私は男(の人間)だが、どうも参考になりそうである。
 彼女は、私より3~4歳若い世代だから、「子供じみたこの時期の“解放感”に」冷やかに接することができた。
 いわば体験なき経験が、彼女の課題となり、彼女にとっての実感で触れられたマンガにのめり込む。
 その内に自分でも描きはじめるが、その間新たな課題探しも始まる。それが冒頭の一行、「自分であること」に励むことになる。
 しかし、励むというよりのめり込んでいたから、身心ともに疲労。その為に身体と精神を共に病んでしまう。
 その頃に彼女は<詩>に出逢う。「書きまくる数年間」が始まる。精神の病がその日々で癒されたのだろう。心身が依存の対象をズラしたのだ、と私は思う。
 それでも依存だから、「治ったわけではない。」と彼女は書く。
 しかし、それらの詩文の群を『現代詩手帖』に投稿し始める。
 それでも、私生活は混乱を極め、母親との母娘ゲンカは日常的であったようだ。
 その日々を詩人仲間の紹介で詩誌の「使いぱしり」「編集/校正」翻訳、下訳などを扮し、多忙を極めてゆく。
 そして、78年に、自費で自作品を出版する。
 更に、その直前「詩手帖」賞を受賞。一躍詩壇の仲間入りを果たす。傍ら教職に就き、一挙に「社会」人として自活の道を歩み始める。
 が、以後も「人生は若気の至り」で満たされて今日に至る。
 というプロセスを経て、本書冒頭の一行となる訳だが、そもそも「宣言」や前書き、後書き解題、添え書き、ト書き、吹き出しなどの短文は、本質的に文学に貢献しているから、依存の対象は文学ということになる。そのことは著者が文学者となったことを証している。
 前回のクリント・イーストウッド本の著者も既に文学者である。評語、評伝、解訳も、全体を見渡せば、短文である。
 なかでも、妊娠/出産に関する章で「みなぎる多幸感、全能感が(…)未来を拓く」という記述には圧倒される。本書は、数々の女性の質問に伊藤が応えるというカタチで進められるが、それらが一貫して自作の解題、後書きになっている。特に私は親の看病/看取りの章が切実に共感した。彼女は母の呪いを引き受けて、今後もいくらしい。

 さて、まだ読んではいる『夜の果てに』も飽きたとはいえ最終数十ページを残すのみとなった。
 次回はまたそちらに戻ろう。

by ihatobo | 2014-10-15 22:54