『PARIS』(マルコム・マクラーレン Vougue 94年)
お客様は、席に座わり、一息ついてお茶を飲み、会話を楽しむ。しかし、店は目的地までの、あくまでも通過点。そこで、裸になって風呂に入り、ベットにもぐり込んで眠る、というわけにはいかない。そこに住み生活をしているのでもない。
しかし、そこで生活している人々もいるから、様子が似ている、といっても、一概に一緒にはできない。
ただ、カウンターのこちら側で見ている限りでは、通過してゆく人々、通行人であることに変わりはない。
名も知らず、どこに住んでいる人なのかも知らされていない。
またもう一度会いたいと願っても、それを口に出すことも失礼であるし、追ってゆくこともできない。
つまり、そういうポイントでは喫茶店は常に大切な人を失ってしまう施設なのである。
だから、「路上」をゆき交う人々と変わらない、と私は考えている、
高速道路のパーキングエリアのように、椅子とテーブル、軽い飲み物と食事、それとトイレ。基本的には、それだけで喫茶店は成り立っている。
気の向くままにそこの路地に入ってみよう。しかしその行く先はゆき止まり。しかし、慎ましく看板が出ている。
外から店内の様子を伺っても暗がりでよく分からない。今どきのように看板にメニューが掲示されているわけでもない。
それでも店の扉を押してみるのは、そこが基本的に「路上」であることを私たちが知っているからだ。内心ではラッキーなら、一息入れることもできるかも知れない、うまくすれば、コーヒーかお茶がおいしいかも知れない、そう、心地良いBGMの中でタバコが吸えるかも知れない。値段は不明だが不当なことはないだろう。
そうやって、通り過ぎるだけなのに、その店に暫く留まる。
そのBGMの一枚が本作だが「ジャズ・イン・パリ」は、パリ・イズ・ジャズを付け足してリフレインする。その前曲④で、マクラーレンは「午後のベットでジュリエット・グレコはマイルスとミーティング」とナレーションする。
果たして、通りすがりの短い恋(の舞台)がパリなのか。そのパリがジャズなのか。
”空耳”ではPARISのRがサイレンスしていて、PASSに聞こえる。本作は他にカトリーヌ・ドヌーブ、フランソワーズ・アルディ、アミーナが参加している。
喫茶店のBGMは、やはりジャズなのか。
by ihatobo | 2013-05-08 10:45