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『不気味な笑い』(ジャン=リュック・ジリボン 原 章二訳 白水社)

 気になっていたベルクソンの『笑い』(38年)の関連本『不気味な笑い』(ジャン=リュック・ジリボン 09→10年 白水社)が出たので早速読んだ。
 丁度『やすらい花』を出した古井由吉へのインタビューを読んでいて、そこに思い当る発言があり、ジリボンを読み終わるとこの本との共通の認識が読み取れた。
 古井は「人は自分のことに関してすら、境目はずいぶんあやしいんではないですか」と語り、「知らないはずのことを実は知っている」し、「端的にいえば、自分の生まれる前のことでも、知っていることがある」という。
 古井はその締めくくりで「文学というのは、しょせんは声なのかも知れませんね」という。
 ジリボンによれば、この古井の発言は“無意識”の内容を述べている、ということになる。
 本書はその“無意識”の発見者、フロイトの『不気味なもの』(19年)と『笑い』との類似/差異を扱って人が存在する様態の内訳を辿っている。
 しかも、複雑怪奇な「精神分析」とも、抽象・難解な「哲学」とも異なる「魅惑的な不思議=笑い」にドボン(笑)と落ち込んで考えを巡らせた著者の論考になっている。
 訳者、原章二が記すように「哲学」の世界に対する位置が私にもよく分り、その一文が本ブログのテーマである喫茶店を記述するのに都合がよかった。

 −その問いの開く領域を探索するのに言語が適していないことを示している。そしてそれは少しも驚くべきことではない。

その問いとは「枠は、いったい何を囲うのだろうか?枠のなかには何があるのか?枠のなかにあるものが、枠を撹乱したり宙づりにするのではないだろうか」というものなのだが、この枠を<喫茶店>に置き換えるならば、私にはこの問答が一字一句違うことなく分る。
 つまり、本書はその枠のなかにあるもの、存在や意識活動の全般を「コンパクト」に記述することに見事成功している。
 喫茶店のなかで起こることも「笑い」や「不気味なもの」であり、それらが喫茶店という枠をその度ごとに壊す。
 初心者に禅師が問い掛ける公案である「父母未生の生」「隻手音声」の引用もあり私はそこからこの本に落ち込んだのだが、この公案もここでいう枠である。
 前者は自分を産んだ(事実)両親の産まれる以前の自分(の生)とは何か、という頭が真白になる問いであり、隻手は片手のことで、片手の拍手の音はどんな音か、という問いである。
 つまり枠でありながら「笑い」であり「不気味」でもあり…という同語反復、論点先取を何とか上手に辿っている。

by ihatobo | 2010-06-02 01:49 | 本の紹介